水口 峰之

指揮してます。主に古典派とかブラームスとかです。 世を忍ぶ仮の姿として高校で社会の教員…

水口 峰之

指揮してます。主に古典派とかブラームスとかです。 世を忍ぶ仮の姿として高校で社会の教員やっています。高校では吹奏楽部の指導もしています。週休3日の嘱託人生に入りましたがあい変わらず通勤時間の暇つぶしに演奏側の立場として、音楽演奏に関する気がついたことや仮説を書いたりして参ります。

最近の記事

2/2と4/4の差別化

ブラームスop98の開始には漲った緊張感がある。そのアウフタクトの裏拍にある四分音符は、一見シンプルだが、見事なくらいにその緊張感の位置を表している。 聞いた記憶の上なぞりではわかりにくいがこのallegro non troppo は4/4ではない。2/2で書かれている。つまり、この有名なH音は「4拍め」ではない。「アウフタクトの裏拍」にその位置がある。この四分音符の前には書かれていないが四分休符がある。この事実を忘れてはいけない。アウフタクトはその見えない休符によって面積

    • 「感じる」より「探究する」が必要〜シューベルト「未完成」第2楽章

      D759の第2楽章も3/8 andante con moto で書かれている。「未完成」交響曲のロマンに取り憑かれるよりも、この事実の方がよほど大事なのだ。 この第2楽章の最初のフレーズの形が小節の6拍子であることが見えている場合、その開始は一言で語り出すことができる。 0 1 2 3 4 5 | 6 予備振りの0小節めを起点として、6小節めに帰着する形がわかっているからこそ、ステップの軽いandante で動きをもって、その形を語ることができる。8分音符を数えていても

      • 「積み上げる」よりも「見通しを持つ」こと〜ベートーヴェン交響曲第5番第2楽章

        ベートーヴェンop67の第2楽章andante con moto は3/8拍子で書かれている。 この演奏が難しいのは、この冒頭主題の尺が長いことにある。つまり、起点から帰着点までの距離が遠く、それを見出せていないと、部分的なフレーズにとらわれてしまうのだ。 このような息の長い曲に出会った場合、小節の素因数分解的にメロディの全容を捉える必要がある。逆に言えば、それができていないから、響きに頼ってしまう。そうやって「精神性」とか目に見えない何かに陥ってしまうのだ。 この主題

        • 相対的な視野で見る〜ベートーヴェン交響曲第1番の開始について

          例えば、ベートーヴェンop21の開始が云々よりも、その音楽としての動きがどうなっているのかが見えているかどうか、そこが大事。この冒頭の動きは4小節めの初めての総奏に向かっている。冒頭の一点からそこまでの「流れ」があって初めて意味のある論理となる。 いかに細部の精緻が整っていたとしても、「平均点」以上のそれであったとしても、その1小節めだけでは「意味」を成してはいないのだ。 このop21の冒頭はシンプルであるが、そのシンプルさゆえに難しいのだ。 この4小節めまでの動き自体が

        2/2と4/4の差別化

        • 「感じる」より「探究する」が必要〜シューベルト「未完成」第2楽章

        • 「積み上げる」よりも「見通しを持つ」こと〜ベートーヴェン交響曲第5番第2楽章

        • 相対的な視野で見る〜ベートーヴェン交響曲第1番の開始について

          見落としてはならないこと〜ブラームス交響曲第4番第4楽章

          ブラームスop98の第4楽章のシャコンヌテーマは、二つの小節が分母となって、その上に音楽が載せられていく。そういう見通しができて、ここに存在する大きな4拍子が見えて来る。だが、それは、このシャコンヌテーマがそもそも8小節を要している時点で気が付かなければならない。つまり、それだけ「形を捉える」という姿勢に無頓着だからだ。 論理という形があるから私たちは文章をと通して、他人の考えを理解できる。音楽は音を使って形を作るものである。音響が人間の本能に影響力を持つから忘れがちだが、

          見落としてはならないこと〜ブラームス交響曲第4番第4楽章

          響きの魅力の前にフレージングを優先して考える〜ブラームス交響曲第4番第2楽章

          ブラームスop98の第2楽章。その第1主題が行き着いた先に、咲き乱れる第2主題。 八分音符で綴られるこのメロディはその和音の響きに魅了され、テンポが遅くなりがちだ。だが、楽譜のフレージングを生かすことを優先して考えると、呼吸はもう少しあっさりしている。ゆったりとした感覚はテンポ感の問題ではない。その骨組みが大きくなるからだ。 その41小節から始まるメロディは、二つの小節を分母にした大きな6拍子を骨組みの上にある。 その拍節の分母の変わり目は39小節めにある。 第1主題

          響きの魅力の前にフレージングを優先して考える〜ブラームス交響曲第4番第2楽章

          4拍目は反動を利用する〜ブラームス交響曲第4番第2楽章

          ブラームスop98の第2楽章の82〜83小節めは、かつての僕のような、リズム音痴には頭を抱えさせられる場面だろう。こういう場面があるから8分音符で数えたくなってしまうのだが。 中学生の時にこの曲に取り憑かれたものだ。ステレオの前で子供らしくエア指揮なんかしてたけど、ここは騙されてしまうんだよな、と幼いながらもその不思議を感じていたのが思い出される。 そもそも80小節めから6拍子とはなんぞやと考えさせられる場面に陥る。付点四分音符支配によるリズム感が強くなるのだ。まるで3/

          4拍目は反動を利用する〜ブラームス交響曲第4番第2楽章

          分かってから語る〜音を並べるからの脱却

          ベートーヴェンop68を始めるにあたって、最初のフェルマータまでを「一言」として語れるかどうか。 演奏するとはそういうことだ。 つまり、音符を数えて並べて、それが「楽譜通り」というほど機械的な問題では済まないのだ。 演奏とは、どう語るのかという問題と切り離しては考えられない。何を持ってひとつのフレーズとして、ひとつの息の中に収めるのか。それは日本語の発想では掴みにくい。音を組み合わせて単語を作る日本語と、息として単語を発音する西洋の言語とは決して同じではない。その違いを

          分かってから語る〜音を並べるからの脱却

          突き落とされる寸前の緊張感〜マンフレッド序曲の1小節め

          シューマンop115序曲の冒頭Rusch4/4は、ベートーヴェンop67の冒頭をさらに複雑にしたような音楽だ。切迫感のある速いスピードで一気に畳みかけるこの半拍ずれた3つの四分音符が作る形。そのクレシェンドも休符に付せられたフェルマータも効果的だ。 崖の上から突き落とされる直前で留め置かれたような緊張感。そのオチのない中途半端が、却ってその先の深い谷底を見せつけてくる。 この小節だけで、緊張感のある形を成している。そして、それが鳴り響く空間を一瞬にしてその場面の中に巻き込

          突き落とされる寸前の緊張感〜マンフレッド序曲の1小節め

          ベーレンライター版の「田園」を読んでたら

          ベートーヴェンop68の第5楽章6/8allegrettoをベーレンライターの楽譜で読んでいると毎回思うのだが、そのフレージングに癖があって面白い。1stvnの歌に続く2ndvnのフレージングが一致しないのだ。一度めと二度めとでは、違う歌い方を求めているのだ。 ただ、このフレージングの実現をまじめに考えているとテンポ感が変わってくる。特に21小節めからの3小節間を括ったスラーはある程度のスピードを要求するものである。 そのように捉えてみると、この主題の骨格は二つの小節をセ

          ベーレンライター版の「田園」を読んでたら

          扉を叩くとか鳥の囀りとかはどうでもよくて

          ベートーヴェンop67の開始は「八分休符から」という話しは子供のころから散々聞かさせれてきた。そこに「溜め」が生まれる。だから発音が鋭くなると。如何にも音楽のせんせいたちがしたり顔で語りそうなネタだ。 だが、それは20世紀のドイツの巨匠たちのようなあのテンポ感であったからこそ、のものであったのではないだろうか。楽譜の2/4allegro con brioのテンポ感ではその「八分休符」に妙な重みを持っている余裕はないように思う。その感覚はもはや古いように感じる。 小節の内分

          扉を叩くとか鳥の囀りとかはどうでもよくて

          反動としてのアウフタクト

          K.525の第2楽章は2/2andanteの曲である。だが、聴いた記憶に騙されてままの感覚では4/4で、しかも最初の四分音符がまるで1拍めになってしまう。そういう演奏は少なくない。これはHWV351の序曲などにもありがちな感覚の罠だ。 K.525のandante の場合、その冒頭は0小節めの運動の反動によって引き起こされる1小節めのアウフタクトから始まる。この運動は、小節の4拍子という外分図形を認識すると感覚に騙されない捉え方ができる。 音楽の運動は何かしらの起点があって

          反動としてのアウフタクト

          迷ったら、外分的な広がりを見つける。

          ブラームスop90の第1楽章やop98の第2楽章のような6拍子の音楽を見ていると、やはり6拍子を付点音符の二拍子で扱うと音楽が平面化してしまうのを実感する。いつもいう喩えだが、メルカトル図法の地図をそのまま捉えてしまうようなものだ。あの平面図を如何に球体として見れるかは空間把握の想像力が必要だ。それは楽譜と再現される音楽との関係と似ている。 小さい音符を6つ並べて足し算的に6拍子という結果になるのも、付点音符の2つの足し算で6拍子を演奏するのも平面図レベルでの再現でしかない

          迷ったら、外分的な広がりを見つける。

          この4拍目をどう扱うのか?

          「楽譜の可能性を広げる」とは、どういうことだろうか。こないだ、そんな問題例に出会ったので、その事例を書いてみる。 K.504の第1楽章の第2主題の後半と同様に、ベートーヴェop67第4楽章の第2主題の後には「アウフタクトをどう取るのか」課題がある。というよりは、それを「アウフタクトとして取るのか」というべきかもしれない。 K.504の場合は113小節めに見られる音形の二つの四分音符をどう扱うのかの問題だ。112小節めから始まるこのフレーズは ①この二つの四分音符がダンパー

          この4拍目をどう扱うのか?

          なぜ二つめのフェルマータはタイで繋がれているのか〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章

          ベートーヴェンop67の第1楽章allegro con brioはそもそも2/4で書かれている。 耳で聞き馴染んでしまった感覚ではこの事実さえ「当たり前」になってしまう。快速さ、自然さを追求しすぎて知らないうちに無自覚に2/2になってしまう危険がある。 「当たり前」と思っているから楽譜を見ていない。2/2的にこの第1主題を歌うと思い切り快速な演奏にドライブすることはできる。だがその快感に騙される前に、なぜ2/4なのかを考える必要がある。 これは、例えばK.550の第1楽章

          なぜ二つめのフェルマータはタイで繋がれているのか〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章

          変わり目〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章

          例えば、K.488のadagioの主題は形がはっきりとそこにあるので、自ずとテンポ感も見えてくる。形が見えているから語り口が分かる。少なくとも、録音に支配されてしまう前の時代の人たちにはそれが読み取れたはずだろう。残念ながら、今の人にはその読み方は難しい。先に録音があって、そのイメージで作品に入ってしまうからだ。 このadagioの語り口もテンポ感も楽譜には明確に分かるのだ。形がある、とはそういうことなのだ。 だが、ベートーヴェンop67の第1楽章で6小節めからの主題提示

          変わり目〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章