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中西伊之助(プロレタリア作家・社会運動家)

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中西伊之助(1887年2月8日〜1958年9月1日)はプロレタリア作家、社会運動家として、様々な被抑圧者の解放のために力を尽くした。  京都府久世郡槇島村(現・宇治市槇島)の農… もっと読む
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中西伊之助物語 「伊之助と母」⑨     中西伊之助研究会幹事 水谷修

中西伊之助物語 「伊之助と母」⑨     中西伊之助研究会幹事 水谷修

伊之助、
伏見工兵第十六大隊に 伊之助は、1907年12月1日、工兵第十六大隊に入営した、と筆者は推定している。
 『工兵第十六大(聯)隊』によれば、第十六大隊は日露戦争中の1905年7月、満州の「遼陽」で編成され、1907年内地に帰還している。その時は大阪天王寺の捕虜収容所跡の仮屯営であった。そして、1908年伏見に移駐し、翌年4月、伏見に常駐するようになる。(伏見移転は1908年説と、1909

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中西伊之助物語 「伊之助と母」⑧     中西伊之助研究会幹事 水谷修

中西伊之助物語 「伊之助と母」⑧     中西伊之助研究会幹事 水谷修

東京の伊之助 その2伊之助、
海軍兵学校入学を
拒否される。 伊之助は『文芸公論』(1927年11月号)の「夢多き頃ー私の二十歳前後」という文章に次のように書いている。
 「私は三月、神田の大成中學校の、五年生の編入試験に及第した。そして一方、國民英學會や研數學館などの夜學にも通つて、英語や數學を研究して、兵學校入學の準備をした。百圓の金のある間に、私は兵學校に入らねばならなかつたのだ。」
 しか

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中西伊之助物語 「伊之助と母」⑦     中西伊之助研究会幹事 水谷修

中西伊之助物語 「伊之助と母」⑦     中西伊之助研究会幹事 水谷修

東京の伊之助 その1          
伊之助
対馬から東京へ 伊之助が対馬をはなれ、海軍兵学校に入る目的で、東京に出たのが1905年、満18歳の2月である。
 1907年、20歳で徴兵検査をうけ、工兵第一六大隊に入営するまでの約二年間、東京にいた。
 この2年間に、中学で学びながら、その間に、新聞配達夫や車夫をし、日比谷焼打ちに参加し、社会党大会に参加するなど社会主義の感化をうけた。この東京で

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中西伊之助物語 「伊之助と母」⑥     中西伊之助研究会幹事 水谷修

中西伊之助物語 「伊之助と母」⑥     中西伊之助研究会幹事 水谷修

伊之助
廃娼運動に
立ち上がる。 バイタリティあふれる伊之助は、対馬で廃娼運動に立ち上がっていた。
 伊之助は『我が宗教観』に次のように書いている。
 「そこへ、反對に、大問題が起つた。それは、この町に、今までなかつた、遊郭が置かれると云ふことであつた。私たちは驚いた。ーー神の王國である教會は容易に建設されなくなつて、却つて『悪魔の王國』が建設されるのである! 
 私たちは、起つた。石崎夫婦と共に

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中西伊之助物語 「伊之助と母」⑤                  中西伊之助研究会幹事 水谷 修

中西伊之助物語 「伊之助と母」⑤ 中西伊之助研究会幹事 水谷 修

伊之助と対馬 その一 2006年8月、私たち研究会は「中西伊之助の足跡と対馬戦跡探訪の旅」にでかけた。日本・韓国・対馬の研究者の皆さんと交流もした。その対馬調査をふまえ「伊之助と対馬」について考えてみたい。

日露戦争のさなか
伊之助、対馬に渡る 伊之助は『新興文学全集第二巻日本篇Ⅱ』(1928年平凡社)の「愛讀者への履歴書」で次のように述懐している。
 没落していった中西家にあって「十六の頃から

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『戯曲 武左衛門一揆』 中西伊之助・作

『戯曲 武左衛門一揆』 中西伊之助・作

戯曲 武左衛門 中西伊之助作
一九二七年(昭和二年)五月三一日、解放社発行

本書を四国農民運動の先駆者達、熊田武左衛門翁の郷党諸兄にささぐ。
一九二七、メーデイ、東京にて
著者

武左衛門翁に就て 一昨年、愛媛県農民組合連合会、井谷正吉兄等の招きに応じて講演会に出席した時、同君の同郷人である上大野村の熊田武左衛門翁の事をきいた。その時私は武左衛門翁が、木内宗吾、もしくは磔茂左衛門の如き封建時代の

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中西伊之助物語 「伊之助と母」④     中西伊之助研究会幹事 水谷修

中西伊之助物語 「伊之助と母」④     中西伊之助研究会幹事 水谷修

伊之助、母を訪ねて
   伊万里へ 伊之助と母ータネの連絡がどのようになされていたのか不明だが、絶えず音信があったのだろう。
 江戸時代、佐賀藩は幕府から長崎警護の任を命じられていたため、軍港だった伊万里津と楠久津に「御船屋」という役所を設けるなどの整備をした。
 最愛の息子ー伊之助と別れ、タネが「嫁い」だ楠久津には城もあった。軍船にのる「御船手」や、軍船を作り修理する船大工も多く住んでいたらしい

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中西伊之助物語 「伊之助と母」③     中西伊之助研究会幹事 水谷 修

中西伊之助物語 「伊之助と母」③     中西伊之助研究会幹事 水谷 修

「生さぬ仲」の
   祖父と母 伊之助の母である中西タネは、伊之助の祖母ー中西カナの「前夫との長女」として、1865(慶応元)年9月26日生まれた。
 宇右衛門が中西家に養子に入ったのは1868年(明治元年)で、タネがすでに2歳の時である。
 つまり、母ータネと祖父ー宇右衛門に血縁関係がないのである。もちろん伊之助と祖父にも血縁関係もないことになる。
 このことが、中西家の没落、一家崩壊の要因にな

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中西伊之助物語 「伊之助と母」②     中西伊之助研究会幹事 水谷 修

中西伊之助物語 「伊之助と母」②     中西伊之助研究会幹事 水谷 修

「農夫喜兵衛」と
 祖父と安養寺 伊之助の祖父ー宇右衛門は、1844年1月8日、宇治郡莵道村、長谷川藤五郎とやすの次男として生まれた。
 そして、1868(明治元)年1月15日、24歳で槇島村の中西家に養子として入った。
 莵道は宇治川の東、槇島は宇治川の西で、宇治川をはさんだ養子縁組であった。舟が重要な交通手段であった当時、川は道であり、川をはさんだ地域は「向かいどうし」でもあった。
 宇治市莵

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中西伊之助物語 「伊之助と母」①     中西伊之助研究会幹事 水谷 修

中西伊之助物語 「伊之助と母」①     中西伊之助研究会幹事 水谷 修

はじめに 中西伊之助は1887年2月8日、京都府久世郡槇島村(現・宇治市槇島町)に生まれた。
 我が故郷・宇治が生んだ巨人ー中西伊之助は、民族差別・部落差別・女性差別や刑事弾圧に怒り、抑圧される労働者や農漁民に心を寄せる、戦闘性にあふれる運動の指導者であり、気骨の人だった。社会運動家であったうえに、行動する作家でもあった。1958年9月1日に71年の生涯を閉じるまで、大衆とともにたたかい続けた。

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「母のこころ」 短編小説 中西伊之助著

「母のこころ」 短編小説 中西伊之助著

プロレタリア作家ー中西伊之助の短編小説「母のこころ」を紹介したい。

小作農の作兵衛はとう⌃死んだ。全く、彼は、とう⌃死んだのだ。……
 たれでも、最後は死である。それを疑ふ人は、たれ一人もない。だが、作兵衛ほど、安楽に死んだ人はないだらう。彼はありふれた言葉で表現するならば、『眠るが如く死んだ』
 が、彼がその眠るが如く、なんの苦悶もなく死んで行つたのには、かうだ。彼は七十一にもなつて、まだせつ

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『公約』 中西伊之助著

『公約』 中西伊之助著

第一章 湯の宿にて

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 大阪から山陰線にはいると、K温泉がある。どこの温泉もあまり変わりがないが、初秋の明るい小春日和なら、幾階もの旅館が、山ふところに抱かれてならび、濃淡のみどりや、もう点々と色づいている落葉樹の中に、朽葉色の高い甍が重なり合つて、あつちこつちの谷間からは炊煙のような白い湯煙が幾すじも立ちのぼつている。静かな山の出で湯の一夜を楽しもうとする人々が、ドライブしてくる夕方

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