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【エッセイ】”母の日”という苦悩

街中が赤いカーネーションで溢れ、買い物連れの親子賑わう週末のショッピングモール。
若い父親らしき男性とその子どもたちが、仲良さそうに手をつなぎ時々抱っこしてよと言わんばかりにジャンプしながら歩く。

ふぅ。。。

針の先ほどに絞った唇の隙間から、思わず細長いため息が漏れる。

私には子供がいない。


男性からしてみれば、自分たちとは違い女性なら誰でも子供を生むことが出来る性質があると思いがちかもしれない。
でも実際には、子供のありなしというのは女性に生まれたからといって必ずしも選択できるわけではない。
仮に生物的に子宮がある、生理があるという目に見える条件が揃っていたとて、理論上ひとりでは子供を授かることも叶わないからだ。


ましてや私のように40オーバーともなれば、そもそもパートナーがいたからといって、卵子の老化問題や先天的遺伝子異常の問題など、一般的にハイリスクゾーンと言われる年齢である。
時代が江戸の大奥なら、お褥滑り(おしとねすべり)なんてとっくの昔に過ぎているのだ。


それでもなお子供がほしいと希望を捨てきれず、有名人や知り合いの高齢出産の成功例を見ては、もしかしてまだどうにかなるのではないだろうかと抱く、淡い期待…..。


と同時に、何度も耳タコで聞いてきた高齢で子供を望むことへの周囲から向けられる好奇な視線やエゴ呼ばわりの声、頭でっかちに成りつつあるムダに蓄積された、妊娠に関する怖い知識やらが蠢き、頭の中で処理が追いつかないほどに心の中がぐちゃぐちゃになっていく。

独身子なし女にとっては、不意に見かける微笑ましい家族の風景は時として、刺客が投げた矢じりに首をつかれ、動脈にでも刺さったような気持ちになるものだ。


子供を見かけて、素直に「可愛い」とだけ思うことが出来なくなったのは、いつからだろう…….。


そんなひねくれた毒女….あ、独女の日常は周りの世界があまりに眩しくサングラスなしでは街を歩けない。
いや、サングラスというとなんだかカッコいいがそれは違う。
視力の悪い私からすれば、実際には裸眼で視界がぼやけているくらいの方が、ムダな衝撃を受けずに済むというものだ。


毎年やってくる”母の日”もそうだ。


若い折は考えもしなかったのだけれど、この年齢になってみてふと思ったのは、一体この”母の日”を心から喜んでいる人は、どれくらい居るのだろうということだ。

いや、待てよ。
誤解を避けるために先にこれだけは言っておこう。
別に母の日を全否定しているわけではない。


お腹を痛め十月十日、命を守り抜きこの世に新たな生命体を産み出したというのは、まことに誉れ高いことであり偉大な存在だということ。
母になりたくてもいまだ叶わぬ私には憧れであり、その凄みは誰よりも知っているつもりだ。


けれど、年齢を重ねあらゆる人に出会い、人間の育った環境や一人ひとりの持つ人間関係も人それぞれだということを経験として学んだ今、私の個人の諸事情うんぬんを除いても、喜ばしく思わない人も居るのではないかと想像してしまったのだ。

例えば、生まれながらに母親が存在しないパターンの家族構成や、途中で生き別れてしてしまったケース、時を経て死別により母がもうこの世に居ないという場合もあり得るし、生きていたとて劣悪な環境下で育ち、不仲ということだってあり得るではないか。

もしくは、やっとの思いで授かった赤ん坊を途中で流産してしまった場合や、生まれたには生まれたけれど、病弱で幼くして亡くしてしまったという女性だっているはずだ。

おせっかいかもしれない。
だが、同じく子供が欲しくても今現在いないという立場から母の日を見ると、一度母になったという事実があるだけにより一層、そのような女性の心には深く悲しい記憶として、刻まれているのかもしれないと思ったのだ。

世間的にハッピームード商戦で売りたい商業施設などからすれば、このような話はセンシティブなこともあり、あまり触れてはいけないタブーとして口に出す人は少なく、好まれないかもしれない。

だか健やかに育まれていく命がある一方で、この様に溢れんばかりの愛情で待ち望んでいたとて、線香花火の如く小さく儚く、一瞬の命燃やしてサヨナラを告げていった名もなき灯火があったことも忘れてはならないと思う。

そんな母になりたかった女性たちが心安らぐような、静かで穏やかな母の日があってもいいのではないかと、ふと感じたのだ。

そんなふうに考え始めると、母の日というフレーズを聞くたびに、寂しさに支配されたり悔しさに涙したり、母がいる友達と比べ嫉妬してみたり、もしくは健やかに育つ子供を持つ友人ママと比べてしまったりと。
”母の日”というイベントの裏側で隠された人の内側というのは、なんだか穏やかな感情ばかりではないように思えて、胸がザワザワしてしまったのだ。

余計なお世話だと言われてしまえば、それまでの話なのだけれど、どうもこう….人の感情に敏感な気質の私は、周囲のアレコレを詮索したいわけでもないのに、自然と感じ取ってしまうから、まぁ厄介なものだ。

街中で見かける「HAPPY MOTHER'S DAY」の広告や放送。
花を愛してやまない私でも、赤いカーネーションを見て、こんなにも悲しく複雑な気分になる日は他にない。

とはいえ、もしも。
もしもだけれど、奇跡的にこの先こんな私でも子供を授かる未来があるのなら、まだ見ぬ子供の小さき手から渡される、一輪のカーネーションを手にする瞬間がどれだけ尊いものなのか、その時始めて身に染みて分かるのであろう。

きっとその時が来たら、アレほど嫉妬に燃えていた赤色のカーネーションも愛と生命の神秘に満ちた、赤色に進化を遂げる。


そんなことを空想している週末。
人間とは非常に勝手なものだなとつくづく思いつつも、そうやってあらゆる感情に揺れ、翻弄されながら強くなり大地に根を伸ばし、やがて大雨が来てもシャンとして立っていられる、そんな存在になれるのではなかろうか。
それが、母と呼べる存在なのかもしれない。

きっと私が母になれないのは縁でも運でもなく、私自身が小雨でなぎ倒されてしまうほどに弱っちい存在だから。

…..強くなるんだ。
もし、母になれる未来が来なくても。

自分のために。
せっかく女性に生まれたのだから。

今年も赤いカーネーションは誰にももらえないけれど、私はこれから、しなやかで凛とした赤いカーネーションになる。

なんでもない土曜日の静かな夜。
そんなふうに心のなかで、ひっそりと自分だけの誓いをたててみた。


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