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オリエント・中東史⑲ ~サラディンとアイユーブ朝~

十字軍にエルサレムを奪われたイスラム世界では、セルジュク朝の衰退に乗じて、1127年にイラク北部からシリアにかけての地域においてザンギー朝が自立。1144年に十字軍国家の一つであるエデッサ伯国を滅ぼし、第2回十字軍をダマスクス攻防戦で撃退して、シリア統一を果たした。エジプトの制圧をも視野に入れ、ザンギー朝は北アフリカのファーティマ朝に宰相を派遣する。この時、当初の宰相が急死したことによって思いがけず宰相の地位を手に入れたのが、ザンギー朝の若きクルド人部将であったサラーフ・アッディーン、通称サラディンである。

サラディンがファーティマ朝のカリフから新宰相に任じられたのは、若くて経験も少なく人畜無害に見えたからだという。だが彼はカイロで次第にファーティマ朝の実権を握り、もともとの主君のザンギー朝の意向も無視して、ファーティマ朝のカリフの死後、バグダードのアッバース朝カリフの承認を得てアイユーブ朝を興し、スルタンの地位を手に入れた。卓越した政治力を持つサラディンは、イスラム世界の内部分裂を巧妙に利用しながら、自らの権力基盤を固めていったのである。1174年、サラディンはザンギー朝の指導者の死に乗じてダマスクスに無血入城を果たし、エジプトからシリアへと支配地域を広げた。

力を蓄えたサラディンはエルサレム奪回を目指し、十字軍国家エルサレム王国に総攻撃を仕掛ける。1187年、ヒッティーンの戦いでキリスト教軍を破ったサラディンは、悲願のエルサレム奪回を果たした。聖地を奪われたエルサレム王国はパレスチナ北部のアッコンに退き、キリスト教世界に援軍を求める。ヨーロッパでは、ドイツ・フランス・イギリス王たちによる第3回十字軍が結成された。十字軍の猛将リチャード獅子心王と対峙したサラディンは一進一退の攻防の末、1192年に十字軍側との講和を実現させる。イスラム側のエルサレムにおける主権を確保する一方でキリスト教徒の聖地巡礼の権利も保障し、両者の面目を保ちながら3年間の休戦協定へと持ち込んだのだ。サラディンの卓越した政治的手腕の賜物であった。

講和実現の翌年、サラディンは死去し、後継者によってアイユーブ朝はカイロ政権とダマスクス政権に分割される。イスラム世界の求心力は再び失われ、分裂状態が暫く続くことになるのだが、聖地奪回に成功し、キリスト教世界との講和を実現したサラディンの名は、中東のみならず、ヨーロッパにおいても長く英雄として刻まれることになったのである。

サラディンの優れた政治力は、彼がクルド人出身であったことにも起因しているのではなかろうか。クルド人は、イラン・イラク・シリア・トルコ国境の山岳地帯、通称クルディスタンに居住する、「国家を持たない世界最大の民族」である。周辺諸国の利害が交錯するこの地域の住民は、政治の動きが自らの生死に直結するような緊迫感を強いられる。近代に入り、この地域が石油の埋蔵地帯であることが確認されてからは尚更である。現代において、中東の内紛のあおりを受けたクルド人の難民問題は、難民流出先のヨーロッパをはじめ、世界的な大問題となっている。クルド人独自の国家建設を望む声も強いが、かつて「国家を持たない民族」であったユダヤ人が、悲願の自民族国家イスラエルを建設して以後の終わりなき紛争の歴史を見ると、独自の国家建設に手放しで賛同はできないと感じるのも事実だ。かつてサラディンがエルサレムで実現したような、高度の政治判断による対立勢力の講和が実現できれば良いのだが。

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