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オリエント・中東史⑰ ~イスラム帝国の分裂~

ハールーン・アッラシードの死後、9世紀から10世紀にかけて、帝国の分裂は急速に進んだ。東部ではペルシア以来の文化的伝統を持つイラン民族や軍事面で高い能力を持ったトルコ民族が台頭した。もともとは中央から派遣された各地のアミール(総督)が自立し、地方政権が林立したのである。北アフリカでは、チュニジア発祥のファーティマ朝がエジプトにも進出し、新都カイロを建設した。ファーティマ朝はシーア派の分派であるイスマーイール派を信奉し、初代アブドッラーはスンニ派のアッバース朝に対抗してカリフを自称した。イベリア半島の後ウマイヤ朝の指導者もカリフを自称していたので、同時代に三人のカリフが並び立つ事態となったのである。

946年にはイラン系の軍事政権であるブワイフ朝が、アッバース朝の弱体化に乗じて南下し、バグダード入城に至った。ブワイフ朝の首長アフマドは、アッバース朝のカリフから大アミールの称号を受け、実質的な権力を掌握した。ブワイフ朝は、シーア派の分派である十二イマーム派を信奉する政権である。すなわち、スンニ派のカリフがシーア派の政権に行政を委ね、その軍事力でもって自らの権威を守ってもらうという奇妙な関係が成立したのだ。ちなみに「アミール」とは、もともとは地方の総督を意味する言葉であったが、地方政権の自立が進み首都バグダードの行政権をも掌握するに至って、一国一城の主としての「首長」を意味する言葉へと変質していった。現代においても、アラブ首長国連邦(United Arab Emirates=UAE)の名称中にEmirの文字が見えるし、Emirates航空の名称にも同じ綴りがある。宗教的な権威とは別に、地方単位での実質的な権力掌握を志向する傾向は、現代の中東地域にも伝統的に受け継がれているのかもしれない。

軍事政権であったブワイフ朝は、武力で政治の実権を手にしたものの、その強大な軍事力のコストに苦しんだ。軍事への俸給支払いに苦慮したブワイフ朝は、アッバース朝以来の現金での俸給支給(アター)制に代えて、指定された分与地(イクター)からの租税徴収権を認めるイクター制を創始する。これによって財政破綻は回避されたものの、軍人が直接的に農村を支配するようになり、実力を蓄えていくことになる。特にトルコ兵士たちは伝統的に戦闘力が強く、マクルーク(軍人奴隷)として重宝されていたが、軍事優先のブワイフ朝統治下で更に存在感を増していく。アッバース朝カリフの宗教的権威は辛うじて維持されていたものの、リアルな政治権力の世界では武力がものを言う乱世になりつつあった10世紀から11世紀にかけてのイスラム世界は、日本でいえば天皇や将軍の権威が辛うじて維持されながらも実権は強大な武力を持つ戦国大名へと移りつつあった室町時代末期になぞらえられるだろう。ただし、11世紀のイスラム世界は、日本史上にはありえないような強烈な一撃をを食らうことになる。ヨーロッパのキリスト教世界から、聖地エルサレム奪回を目指してオリエントへと向かった十字軍の襲来である。

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