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連載日本史125 桃山文化(3)

桃山文化に欠かせない要素が、南蛮文化の影響である。狩野派によって描かれた「南蛮屏風」には、来航した宣教師たちの様子が描かれている。帽子や眼鏡、ズボンやマントなど、西洋の服装は日本人の興味を引いた。宣教師たちや南蛮貿易に従事した商人たちによって、時計やガラスなどの実用品、油絵や銅版画などの技法、大航海時代を象徴する地球儀など、さまざまなものが持ち込まれた。地球は丸く、朝鮮や中国の遥か向こうには、自分たちとは全く異なる風俗や文化を持った人々が存在することを、当時の日本人は知ったのであった。

南蛮屏風(文化遺産オンラインより)

ヨーロッパの国々の中で、最初に日本と接触を持ったのはポルトガルであった。ゆえに、現代日本語にも、ポルトガル語由来の言葉が多い。パン・カステラ・ビードロ(硝子)・タバコ・カルタ・コンペイトウ等がそれである。ポルトガルのライバルであったスペインもフィリピン経由で日本に船を向けたが、やがて新興国のオランダが両国にとってかわった。そのため、江戸時代以降に定着した外来語は、コーヒー・ビール・ゴム・ガラス・ブリキ・ポンプ・ペンキ・ランドセル等々、オランダ語由来のものがほとんどである。歴史における力関係の変化は、言語にも影響を与えているのだ。

外来語の流入(slidesplayer.netより)

鉄砲やキリスト教とともに、ヨーロッパの天文学・地理学・医学・航海術なども、徐々に伝わった。また、活字印刷術の伝来により、ローマ字による「平家物語」「伊曽保物語」(イソップ物語)「日葡辞書」(ポルトガル語辞書)などが出版された。宣教師たちの精力的な布教活動により、キリスト教信者も次第に増えていくが、それは為政者たちにとって危険な兆候とみなされ、弾圧の対象となっていく。

伊曽保物語(コトバンクより)

琉球貿易では、中国の三弦をルーツとした沖縄の三線(さんしん)が日本に伝えられ、三味線となった。さらに三味線の調べと人形芝居が結びついて、人形浄瑠璃が創始される。一方、出雲大社の巫女であった阿国(おくに)は、神楽に念仏踊りを取り入れた大衆芸能として歌舞伎を創始した。当時の歌舞伎の様子を描いた絵を見ると、男装した女性がロザリオ(十字架)を下げている姿が見られ、ここにも南蛮文化の影響が見られるとともに、当時の歌舞伎が現代の男性役者の女装とは逆のパターンの、宝塚歌劇に近いものであったことがわかる。

阿国歌舞伎図屏風(京都国立博物館HPより)

経済的に豊かになった町衆の間では、食事が一日二回から三回へと増え、武家の女性にならって小袖の着用も広まった。男女ともに髪を束ねて結う結髪の風習も、当時の風俗画から見て取れる。町衆や職人の姿が描きこまれた絵画が増えたこと自体に、文化における庶民の存在感が高まったことが示されていると言えよう。





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