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連載日本史153 寛政の改革(3)

1792年、幕府と朝廷の間に緊張が走った。閑院宮家から初めて皇位についた光格天皇が、父の典仁親王の序列の低さを気に病み、太上天皇の尊号を贈ろうとしたのだが、老中松平定信は皇位についていない者に尊号を贈るのはおかしいと反対、朝廷が尊号宣下を強行すると定信は公家たちを処罰した。いわゆる尊号一件である。

尊号一件関係系図(news-postseven.comより)

実は同時期に幕府でも将軍家斉が実父の一橋治斉に大御所の尊号を贈ろうとする動きがあったのだが、朝廷に対して厳しい処分を下した手前、定信は将軍に対しても同様に対処せざるを得ず、家斉の機嫌を損ねることになった。この事件も遠因となって、1793年には定信は老中を解任される。在任期間は六年であった。

徳川将軍家略系図(コトバンクより)

尊号一件は定信の潔癖な性格が裏目に出た事件であるといえよう。しかし、自分に厳しく他人にも厳しい彼の指導者としてのストイックな資質があったからこそ、救荒対策や災害備蓄を核とした農村復興や都市の治安回復が実現したともいえるのである。定信は各地の代官の任命についても、禄高や地位にとらわれず、有能な人材を次々と任命し、地域の実情に応じた民政の充実を図った。彼によって任命された代官の多くは、優れた行政手腕や善政によって民衆の支持を集め、彼らの業績を称える記念碑が各地に残されている。

寛政の改革一覧(「世界の歴史まっぷ」より)

民政重視の姿勢を打ち出したのは定信だけではなかった。秋田藩主の佐竹義和は天明の飢饉を契機に藩政改革に着手し、藩校明道館(明徳館)を設立して人材の育成を図るとともに、有能な人材を次々と郡奉行に登用して農村の振興に尽力した。松江藩主の松平治郷も同様の改革を行っている。いわば寛政の改革の地方版である。米沢藩では上杉治憲(鷹山)が大倹約令を出して財政再建を行い、殖産興業に努めるとともに、藩校興譲館を創設し、藩士・百姓にまで至る文教政策を進めた。熊本藩主の細川重賢(銀台)が設立した藩校時習館でも、身分を問わず向学心のある者の入学を許可し、積極的な人材育成を行っていたという。いずれにせよ「人」に重きを置く政策は、度重なる飢饉や天災の教訓から得られたものであろう。同時代の世界に目を向けると、ヨーロッパではフランス革命が起こり、国王がギロチンにかけられる騒ぎになっていたが、日本では上からの改革が進んだために、江戸時代の泰平は更に八十年近くの寿命を保つことができたのである。

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