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オリエント・中東史⑱ ~十字軍とイスラム諸王朝~

11世紀に入っても、イスラム世界の分裂と諸王朝の興亡は続いた。中央アジアにはトルコ系のカラ・ハン朝、アフガニスタンには同じくトルコ系のガズナ朝、イランからメソポタミアにかけてのバグダードを含む中央部には1055年にブワイフ朝を倒したセルジュク朝が君臨した。ブワイフ朝はイラン系のシーア派政権だったが、セルジュク朝はトルコ系のスンニ派政権であり、宗教的権威としてとどまっていたアッバース朝カリフから、世俗的権力の執行者であるスルタンの称号を受けた。ヨーロッパのキリスト教世界では、宗教的権威者としての教皇(法皇)と世俗的権力者としての皇帝に代表される二重権威・権力構造が確立していたが、イスラム世界においても同様に、宗教的権威者としてのカリフと世俗的権力者としてのスルタンに代表される二重構造が確立したのである。

イベリア半島では、首都コルドバを中心に独自の文化を誇った後ウマイヤ朝が、内紛と地方の反乱によって1031年に滅亡。その後、モロッコを中心に興ったスンナ派イスラム教徒のベルベル人主体のムラービト朝が北アフリカを席巻し、中央アフリカのガーナ王国を滅ぼしてサハラ南部にまでイスラム圏を広げ、イベリア半島にも進出してキリスト教世界からの国土回復運動(レコンキスタ)を退けて西方イスラム世界を支配した。新都はモロッコのマラケシュ。東にセルジュク朝、西にムラービト朝と、スンニ派王朝に挟まれて圧迫を受ける形となったシーア派のファーティマ朝はエジプトからパレスチナ方面へと活路を求め、11世紀末にセルジュク朝の内紛に乗じて聖地エルサレムを奪い取った。だが折あしく、ヨーロッパでは法皇ウルバヌス2世の提唱により、1096年に聖地奪回を目指す十字軍が結成され、その侵攻を受ける羽目に陥ったのである。

ユダヤ教・イスラム教・イスラム教の3つの聖地が重なり合うエルサレムは昔も今も多くの紛争の要となってきた。ヨーロッパから押し寄せた十字軍に対してファーティマ朝は巡礼者の安全確保を約して戦闘を回避しようとしたが、十字軍側は妥協を拒否してエルサレムに攻め込み、7万人に及ぶイスラム教徒を虐殺した。十字軍は占領地にエルサレム王国を建国。キリスト教側から見れば聖地奪回の成就であったが、イスラム教側から見れば理不尽な侵略行為にすぎなかった。以後、現代に至るまで、こうしたエルサレムを巡る不毛な争いが延々と繰り返されることになる。何のための聖地なのか、理解に苦しむ話ではあるが。

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