見出し画像

連載日本史152 寛政の改革(2)

経済面で倹約令を出して緊縮財政を徹底した定信は、文化の面においても、思想・出版統制を行い、綱紀粛正を図った。1790年に出された寛政異学の禁では,、朱子学を正学、他の学派を異学とし、湯島聖堂の学問所では異学の教授が禁止された。聖堂は1797年には幕府直轄の昌平坂学問所となった。後の東京大学の前身である。

湯島聖堂図(国立国会図書館)

出版統制では、洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎らが、風紀を乱したかどで相次いで処罰された。また、「海国兵談」で国防の必要性を説いた林子平も幕政批判ということで処罰を受けている。農村復興や都市の治安回復では実績を上げた定信であったが、さすがにこうした思想統制は人々の反感を買った。厳しい倹約令への反発もあって、巷では田沼時代を懐かしむ声さえ上がった。当時の狂歌に「白河の清き流れに魚住まず 濁る田沼の水ぞ恋しき」とある。白河は定信の領地、彼の潔癖さを皮肉った歌である。田沼意次の失脚を大歓迎した人々が、今度は定信へのブーイングに回ったわけで、つくづく庶民は勝手なものだと思うが、定信の潔癖さが度を越えていた面は否めない。何事も程度をわきまえなければ失敗するという好例だろう。

ラクスマン(右端)と大黒屋光太夫(左から3人目)(早稲田大学図書館)

「海国兵談」が発禁処分を受けたまさにその年、1792年の秋に、ロシア使節ラクスマンが日本人漂流民の大黒屋光太夫らを伴って根室に来航、ロシアの女帝エカチェリーナ2世の命を受けて通商を要求した。ポルトガル船の来航禁止以来、百五十年ぶりの外交上の難題が訪れたのである。定信は松前藩を通じてラクスマンに国法書を手渡し、異国船は海上にて打ち払うのが昔からの国法であり、通商要求を受け入れることはできないと回答した。併せて長崎への入港許可証(信牌)を与え、将来的に長崎での交渉が可能であることを示唆して懐柔を図っている。その後、幕府は慌てて防衛政策を見直し、諸藩に江戸湾岸や北方の海防体制の強化を命じた。林子平にしてみれば、それ見たことか、といったところだろう。

海国兵談(「山川 詳説日本史図録」より)

実はこの時点まで、「鎖国」は必ずしも国法であったわけではないという。たまたま百五十年の間、中国・オランダ・朝鮮以外の国からの通商要求がなかっただけにすぎない。しかしながら、ロシアからの要求を拒絶するにはそれなりの大義名分が必要であり、そのために「鎖国」を国法と主張したのではないかというのである。いわば既成事実を後付けで国法化したわけだ。実際、「鎖国」という言葉が文献に現れるのは十九世紀以降である。外交政策が後手後手に回るのは、日本古来からの伝統なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?