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オリエント・中東史㉑ ~イル・ハン国とナスル朝~

13世紀初頭にチンギス・ハンがモンゴル高原に興した大帝国は、瞬く間に中国北部・中央アジア・東トルキスタンへと版図を広げ、イラン高原にも侵攻した。遊牧民族ならではの騎馬主体の強大な軍事力に加え、草原の移動生活で培われた機動性もあって、モンゴル勢はユーラシア大陸を席巻し、征服地に次々と自らの国家を樹立したのだ。モンゴル高原の都カラコルムにはチンギスの後継者であるオゴタイ・ハンが君臨し、グュク、モンケを経てフビライが大ハンの地位を得て中国にも支配を拡げ、元を建国する。ロシアにはチンギスの孫バトゥが建てたキプチャク・ハン国、中央アジアにはオゴタイの弟チャガタイの建てたチャガタイ・ハン国、そして中東にはフビライの弟フラグが遠征し、1258年にはバグダードを占領してアッバース朝を滅ぼしたのである。

破竹の勢いのモンゴル軍はダマスクスをも攻略し、エジプト進出を目指したが、マムルーク朝のスルタンとなったバイバルスの軍にパレスチナのアインジャールートの戦いで敗れ、ダマスクスも奪回された。モンゴル勢の西方への侵攻はここで止まり、1260年、フラグはイラン高原を拠点として、イル・ハン国を建設する。支配層はモンゴル民族であったが、住民の多くは文化的伝統に優れたイラン人であったため、その影響もあって急速にイスラム化が進んだ。1295年、第7代ガザン・ハンはスンニ派イスラム教に改宗し、イラン人宰相ラシード・アッラディーンを起用。武力の時代であった13世紀を経て、14世紀にはイラン・イスラム文化が開花したのである。

一方、西方では1269年にムワッヒド朝が滅亡。チュニジア・アルジェリア・モロッコに小王朝が分立した。イベリア半島ではナスル朝がキリスト教世界からの国土回復運動(レコンキスタ)の圧力にさらされながらも独立を維持し、アンダルシアのグラナダを中心に西方イスラム文化を開花させた。数多くの対立と抗争の舞台となったイベリア半島からイラン高原にまで及ぶ広大なイスラム世界は、多様な文化が出会い交わり合う相互作用の場でもあったのだ。

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