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オリエント・中東史㉓ ~ティムール朝~

14世紀に入り、膨張しすぎていたモンゴル帝国の解体が進んだ。中央アジアのチャガタイ・ハン国は東西に分裂し、モンゴル系と融合したトルコ系民族のイスラム化が進んだ。そんな中で、西チャガタイ・ハン国から出たモンゴル系部族出身のティムールが、トルコ系遊牧民の軍事力とオアシス定住民の経済力を統合して1370年に自立。西チャガタイ・ハン国、イル・ハン国、キプチャク・ハン国を次々と併合し、現ウズベキスタンのサマルカンドを都として、中央アジアから西アジアに跨る大帝国を一代で築き上げたのである。

チンギス・ハンの末裔を自称するティムールはモンゴル系部族の出身ではあったが、トルコ語系とイラン語系の2言語を操り、スンニ派イスラム教を信仰していた。そういう点で彼自身が、中央アジアを舞台とした民族融合を象徴する存在であったとも言える。モンゴル軍由来の強力な軍事力を擁したティムールは14世紀末に北インドにも侵攻し、デリー・スルタン朝の一つであるトゥグルク朝の軍を撃破して首都デリーを一時占拠。徹底的な破壊と略奪を行った。さらにシリアにも侵攻してマムルーク朝統治下のダマスクスを破壊し、1402年には小アジア(アナトリア)からバルカン半島にかけて勢力を拡大しつつあったオスマン帝国軍を撃破した。この戦いでオスマン帝国は壊滅的な打撃を被り、復活までに50年を要したという。

次いで東へと目を転じたティムールは、中国で元を滅ぼしてモンゴル族を北へと追いやった明の朱元璋(洪武帝)への復讐を宣言し、モンゴル帝国の再興を掲げ、洪武帝死後の明の混乱に乗じて東方へと大軍を発した。しかし遠征の途上でティムール自身が病死。彼の野望は潰え、ティムール帝国の版図拡大は止まった。カリスマ的指導者であったティムールの死後、後継争いを巡る内紛から帝国は衰退し、サマルカンドとヘラートに分裂し、中央アジアに興ったウズベク人のシャイバニ朝によって16世紀初頭に滅ぼされた。

モンゴル帝国やティムール帝国が短期間に破竹の勢いで勢力拡大を遂げた要因の一つは、チンギス・ハンやティムールといったカリスマ的なリーダーの存在である。そうしたリーダーを選出するシステムとして、モンゴル遊牧民のクリルタイ(部族長会議)が重要な役割を担っていた。クリルタイの基本方針は、厳しい条件下で生き残るための遊牧民の徹底した実力主義であったという。だがそれは、誰もが認める卓越したリーダーが存在する時には有効に機能するが、複数のリーダー候補の実力が伯仲している時には決め手を欠き、主導権争いが激化するリスクもある。その場合、強大な軍事力は内に向かい、集団の自滅をももたらしかねない。徹底した実力主義には、そうしたリスクが潜在することを踏まえた上で、何らかの安全弁を施しておく工夫が必要なのかもしれない。

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