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オリエント・中東史㉒ ~イスラム文化~

イスラム文化は、オリエントの地で古くから発展したメソポタミア・エジプト・ヘレニズムの文化的基盤の上に、イスラム教とアラビア語が融合して成立したものである。中心となった都市はメソポタミアのバグダードとエジプトのカイロであり、イスラム商人の交易ネットワークによって、北アフリカや中央アジア、インドや東南アジアなど、広範囲へと広がっていった。主だった都市にはムスリムの研究機関であるマドロサ(学院)が設立され、先進的な学問研究や技術発展の成果もまた、都市間のネットワークを通じて各地へ伝わった。数学の基礎となるアラビア数字の発明や製紙法・製糖法・絹織物などの産業技術、化学の基礎となる錬金術や医学・天文学・建築学の発達など、当時の世界最先端の多彩な文明・文化は他の文化圏にも大きな刺激を与え、ヨーロッパのルネサンスの遠因にもなった。アルコール・アルカリ・シュガー(砂糖)・チェック(小切手)など、英語の中にアラビア語由来の単語が少なからず存在するのも、イスラム世界からの影響の大きさを物語る痕跡だと言える。

イスラム文化を代表する人物として「4大イブン」が挙げられる。11世紀のサーマーン朝で「医学典範」を著してヨーロッパに医学にも大きな影響を与え、アリストテレス哲学の研究でも優れた業績を残したイブン・シーナー、12世紀のムワッヒド朝において医学や哲学の分野で活躍したイブン・ルシュド、14世紀のチュニジアで「歴史序説」を著し、近代につながる歴史理論や社会科学の先駆けとなったイブン・ハルドゥーン、14世紀のモロッコに生まれ、イベリア半島から中国(元)の大都に至る広大な地域を旅して「三大陸周遊記」を残したイブン・バットゥータの4名である。

建築ではイスラム教のモスク(礼拝堂)に用いられたミナレット(尖塔)やドーム(丸屋根)が特徴的だ。聖地エルサレムには、教祖ムハンマドの昇天を司る「岩のドーム」がそびえ、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」、キリスト教の聖地「聖墳墓教会」と並んで、3つの宗教の聖地が交錯するエルサレムの象徴となっている。13世紀のイベリア半島では、ナスル朝の首都グラナダに壮麗なアラベスク装飾や美しい列柱に囲まれたパティオ(中庭)で有名なアルハンブラ宮殿が建設された。偶像崇拝を禁じたイスラム世界では、幾何学模様のアラベスクが装飾の主体となったのだ。美術分野では細密画(ミニアチュール)の発達も特徴的である。

文学では各地の説話を集大成した「千夜一夜物語(アラビアンナイト)」が世界的に有名である。神学では「コーラン」を聖典として、ウラマー(ムスリム法学者)の司るイスラム法が社会秩序の基準となったが、一方で神との神秘的合一を求めて集団的な修行を行うスーフィー(神秘主義者)も勢力を増した。商業を軽視した中世キリスト教の教義に比べ、商人出身のムハンマドが興したイスラム教は商業尊重の立場をとっていた。こうした点も、イスラム教が商人層のバックアップを受け、交易ネットワークを通じて各地に急速に広まった要因の一つであろう。

アラビア半島から世界各地へ広まったイスラム文化は、土着の文化と混じり合って多様な融合文化を生み出した。ペルシア以来の文化的伝統を持つイラン民族とイスラム教の出会いは、イラン・イスラム文化を生み出した。中央アジア初のイラン人イスラム王朝であるサーマーン朝はもとより、11世紀のセルジュク朝、13世紀から14世紀にかけてのイル・ハン朝では、それぞれ支配民族がトルコ人、モンゴル人であり、公用語がアラビア語であったにも関わらず、文学・哲学・神学などの学術用語はペルシア語であって、イラン人は官僚や学者として重用された。セルジュク朝の名宰相として知られ、各地に高等教育機関としてのニザーミーヤ学院を設立したニザーム・アルムルクや当時の世界で最も正確だと言われたジャラーリー暦を作成した天文学者で詩集「ルバイヤート」を著した文学者でもあるウマル・ハイヤーム、歴史家として「集史」を編纂しながらイル・ハン国の宰相としても活躍したラシード・アッディーンらが代表的な人物である。イラン・イスラム文化は、その後、ティムール帝国を通じて中央アジアのトルコ人へと伝わり、トルコ・イスラム文化へとつながっていく。インドではデリー・スルタン朝からムガル帝国へと連なるムスリム政権のもとで、インド・イスラム文化が開花した。グローバルとローカルの文化の融合は、イスラム文化を特徴づける大きな要素の一つであると言えよう。

現代において、欧米キリスト教世界とイスラム世界の文化的相違を強調する言説は根強い。双方に際立った相違が見られるのは確かだが、歴史的に見ればヨーロッパとオリエントが文化的に大きく影響し合いながら発展してきたのは明らかであり、その根底に共通するものを見出すのは、さほど困難なことではないだろう。互いを理解しあうために相違点を比較するのは有意義だが、違いを強調して双方の対立を煽るかのような言説は無意味かつ有害であろう。違ってはいるが、根っこのところではつながっている。文化史を学ぶ意義は、そのつながりを改めて意識することでもあると思うのである。

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