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田口ランディ『ハーモニーの幸せ』を読んで 『一日一悪』

まずは田口ランディが精神科医の加藤清先生の前でタジタジになっているのがおかしい。加藤先生の飄々とした姿が想像できる。(因みに加藤清という人を私は知らない。)
その加藤先生が唱えるのが「一日一悪」だ。それも、「相手に感謝される悪いこと」なのだ。
なんだ、そりゃあ。誰だって思うでしょう。

それを加藤先生は子供時代を例にとって説明してくれる。(ここはぜひ読んでもらいたいので、どんな話かは書かないことにする。)
結論から言えば、「業(カルマ)」に関する話になるが、業によって、「エロス(生)はタナトス(死)にひっくり返る」。「急にエロスに傾くと、今度はタナトスにひっくり返る」。
そして、田口ランディに「病む力」があると言う。その理由がまた、田口ランディを戸惑わせる。
「病んでなかったら小説なんて書きません」
著者自身も、「わかるようなわからないような」と言っていて、思わず笑ってしまった。

しかし、私が小説を書き始めたのは適応障害(当時の診断名は自律神経失調状態)になったときだったし、noteに小説や詩を投稿している人の多くは、心的な病があることを自己紹介で述べている。

確かに現状に満足していれば小説など書く必要もない。書くからには、書かなければならない状態だからこそ、小説を書くのだと思えば、加藤先生の言葉に間違いはないのかもしれない。著者はそれを「自分の業も相手の業も飲み込んでひっくり返してしまうようなことをしてみたらいい」と理解した。

そして著者は、自伝的でもある自分の書いた小説すべてを父に送る。そこには赤裸々な父の姿も書かれており、父は読んで激怒すると思っている。しかし、「そうしないことには、私のカルマは永遠に閉ざされてしまうと思った。」

しかし、父は著者と家族すべての業を自分で引き受けて、「ありがとう」と言った。父にもそれなりの葛藤があったはずなのに。「これこそ「一日一悪の力」だとエッセイは締められている。

私は父との良い思い出がなく、父を憎んでいたこともあったが、そのことを話す機会を失ったまま父は死んでしまった。葬儀の前日、私は父の棺に向かい、父との思い出を総括してみた。食べるのが好きな私を寿司屋やステーキ屋(その頃はチェーン店がなかったので、それなりの値段がしたはずだ)に連れていってくれたり、入院の見舞いに行ったとき、自分の体よりも私の体を気にしてくれたりなど、なかったはずの良い思い出が溢れ出てきた。人は良い思い出はなかなか覚えられないそうで、悪い思い出だけを引きずる癖がある、とある本に書いてあったのを思い出した。私は棺に向かって「今までありがとう」と素直に言えた。
ただ、いまだに心の奥底に父への怨みがこびり付いて離れていない。
ただ、私のカルマを引き受けてくれる父はもういない。誰か私のカルマを引き受けてくれる人はいないだろうか。
・・・もちろん冗談ですが。

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