社会としての余裕はそこに所属する者のあり方で決まる

よく人間社会は意識的なものを積み重ねて生まれたものだとお話する。

人間は意識と無意識、2つの思考領域を持ちそれぞれが独自に考え、
意思決定しそれを言動に反映させます。

意識とは合理性、規範、倫理道徳といった理性的なものを、
無意識は感情、衝動、動物的な本能といった反応的なものを。

それぞれ思考の軸として世界に向き合っている。

で、人間個人としては無意識的な側面の方が強い傾向にある、
意識は影響力も持続力も無意識には及ばないため、
大抵は無意識の思考傾向が意識の理性的な面を凌駕する。

しかし個人として生きていけない人間は社会を構築する必要がある、
社会は個々人が無意識的な側面に従っていては成り立たない。

種を植えることなく食べたいままに食べ漁っていては、
人間の数が増えれば増えるほど飢えて死んでいくようなもの。

だから意識的な側面に従った何かしらの行動基軸を形作る必要があった、
それは虚構と呼ばれ例えば宗教の教えとして、法などの規範として、
無意識的に好き勝手振る舞うことを抑制する働きを持った。

そうして人間社会に規律が生まれ社会としてのあり方と、
個々人の欲のバランスを取りながら徐々に規模を拡大し、
今日のような発展した社会を築くに至る。

特に日本は世界的に見ても類稀な余裕ある社会を築くに至り、
個々人がそれなりにわがままを通せる状況を生んだ。

ただ、その余裕が当たり前のものになると徐々に規律が乱れる、
引いては社会全体が乱れ余裕の源泉となる様々な生産力が毀損する。

そうして社会は余裕ある状況を維持できなくなり発展することなく、
そこに所属する人間も徐々に間引かれていく。

現代日本は少子高齢化による様々な歪が生まれていますが、
これは生産力毀損による余裕の喪失の典型例でしょう。

社会を維持するという意識を失い個々人がすべきことをせず、
したいことに偏った結果それを可能とする余裕が失われはじめ、
これから先どうするかを真剣に議論しなければならなくなったのです。

余裕ある社会はその余裕故に余裕なき状況へと回帰していく。

これは、言い換えれば人間は人間社会という意識的な積み重ね、
歴史に見合うだけの意識的なあり方ができなければ、
徐々にそれに見合う状況まで衰退していくのだと思う。

確かに人間社会は先人たちが意識的に積み重ねてきた知識や技術、
意識的な側面が小さすぎた故の失敗等の経験とそれを乗り越えた経験、
社会を円滑に回すための伝統や文化、全体を考える思想などで構成される。

そして、それら構成要素を見出すに至ったのは逆境があったからだと思う、
無意識的にあっては乗り越えられない壁がありなんとかして意識を保ち、
それを乗り越えようとしたから生まれたのでしょう。

端的に言えば余裕がなかったからです。

しかし、いくら人間社会が意識的な側面を積み重ねてこようが、
そこに所属する人間個々人は激的に進歩したりはしない。

脳にしても数万年は進化していないといった仮説もありその基本性質は、
先に話したように意識よりも無意識が強いというもの。

その傾向が余裕ある社会で発揮されれば意識的な側面がさらに劣化し、
無意識的に、無秩序的になっていくのは必然だったのでしょう。

結果、ある社会に所属する全体的な側面に従って、
人間社会そのものが徐々に劣化していく。

人間社会は多くのものを積み重ねましたがそれを引き出すには、
結局のところそれに足る全体的に成熟したあり方が必要ということ。

日本はそういうあり方を磨くための思想なり規範なりを考えず、
先人たちの生んでくれた余裕に依存して無意識的な側面を強め、
現代にいたってそれが限界にこようとしている。

もう無意識的な側面に従って好き勝手できる余裕はない、
だけどこれまで好き勝手してきた集団がいきなりその傾向を転換し、
考えるべきことを考えようとすることも難しい。

その狭間で揺れに揺れて迷走しているのが現代日本の実情だと思う。

加えて、そうして迷走していられる時間も残り少ない、
これまで覇権国として世界の警察とまで名乗っていたアメリカが、
相対的に大きく影響力を落とし世界情勢が混乱しはじめているからです。

日本の余裕の一端はアメリカの軍事力による守りにもありますが、
大きく台頭した中国を軸とする利害等の一致で築かれた勢力は、
もはやアメリカ一国でどうにかできるものではない。

国としての独立を守りたいなら少なからず、
自国の防衛力を強化する必要があるでしょうが、
その是非すら迷走している今の日本では即座に決められない。

トップ層や経済的強者それぞれの利害や関係性によって、
あるべき道を見いだせない状態になっている。

繰り返しになりますがその迷走していられる時間はもう残り少ない、
そういう状況の中でこれからの日本社会をどのようにしていきたいのか。

先人たちが積み重ねてきたものをどれだけ活用できる状態でありたいのか、
あるいは乗り越えてそれ以上の何かを積み重ねる気概があるのか。

それとも積み重ねた全てを崩して他国等の意図に翻弄される、
余裕ない状況へと完全に回帰していくのかは、
誰であれ本気で考える必要があると思う。

どんな結果になるにせよ考え自覚したうえで結果を受け入れることが、
日本という国に生まれ恩恵を受け育ってきた者の義務だと考えるからです。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。


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