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#222 彼女の死が私に刻んでくれたこと


死に関する内容を綴ります。どなたかの感情を害させてしまうかもしれません。どうか納得の上でお読みいただければと思います。

昨日、ある女性を火葬場での葬儀でお見送りしてきた。
名前を仮にキャサリンと呼ばせていただく。

彼女は10年前に夫のジョンを見送り、後に患ったパーキンソン病が、少しずつ悪化し、86歳の誕生日を迎えるほんの少し前に天に召された。

ジョンとキャサリンは、私が初めて教会の門をくぐった日に最初に話しかけてくださり、教会内の書店で小冊子を買ってプレゼントまでしてくださったご夫婦だった。
ジョン亡き後のキャサリンは、病気の進行とともに徐々に運転ができなくなり、人の支えがないと歩けなくなり、とうとう外出もままならなくなった。コロナ前ごろから四年以上生活のすべてを息子さんの介護に頼っていた。日がな一日、ソファでうとうとして過ごす日々が果てしなく続いた。それでも元気な頃リフレクソロジーに大喜びしてくれたように、「フットバス&マッサージ」の申し出には、固まった表情筋がキラっと動いたような瞬間もあった。

「もう長くないと思うから今のうちに‥‥」と聞いて会いに行き、それからまた半年は経っていたかという年の瀬、
彼女に会いに行った。
(こんな言い方が許されるかわからないが、敢えて)『生ける屍』とか『恍惚の人』という胸をえぐる表現が浮かぶくらい痩せこけた目の前のキャサリンは、ただ『せい』という試練をこなしているように思えた。
これは口にしてはいけないことかもしれないが、一日も早く神さまのもとへ、ジョンの待つ世界へ召されたかったことと思う。
人間の定めというのはなんと過酷なものかと思わずにいられなかった。生きたいのに命が取り去られたり、逝きたいのに逝かせてもらえなかったり‥‥

イギリスではお葬式に真っ黒の服装では集まらず、むしろ色とりどりで来て下さいと言われることが多い。
故人が『生きた』ことへのセレブレーション(お祝い)ということであるが、キリスト教信仰者なら『天国』に旅立ったことへの二重のお祝いということになる。生きているうちにイエスキリストを信じた者にとって、死は永遠の命の獲得なのだ‥‥


生前のジョンはものすごくハンサムで迫力があって、彼を支えるキャサリンは金髪のボブが似合う美しい女性ひとだった。
ふたりが居るだけで引き寄せられるパワーカップルというのだろうか‥‥
ジョンはかつて牧師として多くの人を導いたが、キャサリンはその助け手としてとても有能だったに違いない。彼らは後に動物園やカフェをふたつも開いたというから、魅力が尽きない。

私のこと、そして夫と子どもたちをとても大切に想ってくださったキャサリン。式場の席に座り彼女の思い出を手繰たぐっていた。
元気だった頃のキャサリンと晩年のキャサリン。相反するふたつの面影が交差する中でそれをぼんやり考えていた。

式が始まり、牧師さんの挨拶もそこそこに、12色のクレヨン全色か使われたようなストライプのシャツを着た人が壇上に立つ。それが民族衣装であり、アフリカで井戸を掘るチャリティーで活動する女性だと知るのに時間は要しなかった。
そのチャリティーこそがジョンとキャサリンが定年後に立ち上げたものだった。それは、アフリカのザンビアにエンジニアや高価な設備を必要としない、boreholeという直径の小さな穴を開けてポンプを通した給水システムの供給だった。(便宜上、井戸と呼ぶが、私たちのイメージの井戸のような大掛かりなものではない)

夫婦二人が始めたささやかなチャリティーだったが、彼らが退いた後も賛同者によって支援が集められ、年に一度ザンビアでの活動を続けている。それが今日までずっと続いていたことは正直、知らなかった‥‥
(余談だが、イギリスには香典というものはなく、故人の選んだチャリティーへの寄付を募る箱が出口に置かれる。この日もそうであったように。)

その女性のお話は淡々としたパッションとともに長く続いた。私たちの多くが深く頷きながらさまざまなエピソードに聴き入った。
なかでも心に残ったのが、これまでにこの小さなチャリティーがザンビアに提供した貴重な水資源は90個以上にのぼるとということ。
これが、ジョンとキャサリンの存在なしでは、ただの一個も無かったのだという事実だった。
だからキャサリンは多くのザンビアの人たちにとっては『真のヒーロー』なんだ、ってこと‥‥
実際にザンビアから届いたキャサリンへの感謝と追悼の手紙が読まれ、一個人いちこじんがこれほど誰かの生活にインパクトをもたらしている事実に胸が震えた。


以前、夫に向かって言ったことがある。
「自分が死んだら葬式に人がたくさん集まってくれる年齢のうちに死にたい」

「Who cares⁉」(誰が気にするんだ)
ちょっと呆れて私を見た夫の顔が忘れられない。

「死んだあとのことなんか自分はまったく気にならない」と彼は言う。

死生観がハッキリ出ているというのもあるが、それよりも自分のエゴを指摘されたようで、私は思いがけず恥じた。

死んだ時、できれば多くの人に惜しんでほしいと思った自分‥‥言い換えれば、葬式での人の集まりや惜しまれ方が故人の生き方を象徴すると考えていたということだ。
今、自分に与えられた生を黙って全うされたキャサリンに、人間としての器の違いを感じずにはいられなかった。晩年のキャサリンに会いに来る人は誰も居ない、と息子さんが私に漏らしたように、ささやかな式に集った人たちの胸にチクっと罪悪感があったように感じた。私もまたそのひとりだ‥‥

生きているうちに何をして自身を楽しませたか‥‥
これは大事にしたいと思っている。機嫌よくいることは周囲に対しては善に違いない。だから否定はしない。
けれど偉大な生き方は(誰かのために)なにかを残す。

キャサリンの美しさ、素敵なスーツを着こなし 髪をセットしていた姿を「いつまでも憶えててほしい」と彼女が思うだろうか?

彼女の生き様と死に様が、人としての在りようを雄弁に語ってくださった。

ザンビアで生きるいくつもの家族が
「この水が飲めるのは、ここを掘った人がいてくれたからだよ」と代々語り継いでいるだろう、その命の連鎖こそが彼女の生きた尊い証しなのだ。


参列者の退場の際に流れた曲。出だしの Moon river~で涙が嗚咽になってしまったけど、笑ってね、キャサリン。


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