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『風に溶ける』

よく風の吹く日だった。

近所に咲く紫陽花に向けてカメラを構えていると、吹き抜けて行く風に揺られて紫陽花の花も、そして自分自身の輪郭すらも曖昧になり、それぞれの境界から自由になって、その場に溶けて行く様だった。

風はどこかからやって来て、どこか遠くへ流れて行く。
そして、花の存在がまるでタンポポの綿毛のように、匂い立つ香りの様に、
風に吹かれて流れて行くのだった。

夕闇の中、ベランダで風に吹かれていると、徐々に暮れて行く夕闇に紛れるのと相まって、風と一緒にどこまでも遠くに運ばれて行くような、そんな気持ちになることがある。

あるいは、ダンサーの身体がふわりと揺れると、空間と身体が一つになる様に、たとえ特殊な身体性を持たなくても、ただ風に吹かれているだけで、自分と世界の境界はいとも簡単に曖昧になって行く。

「花と風」ならば、もっとずっと境界は曖昧なものなのではないかと思う。

風に溶ける-2

風に揺れる、葉のさざめきの様に、
何気なく見聞きしてる光景の中にも、私たちが知らないだけで、未知の対話が溢れているのかも知れない。

そして、私たちもその一部として切り離されることなく、そっと包み込まれている。そう思うと、なんだか穏やかな気持ちになれる。

私たちも自然の一部の未知なる存在としてそこに在る。

・・・・・・・


カメラを持って歩くと、いつもなら立ち止まっても一瞬のところに、暫くの間身を置くことになります。そうすると、少しづつ見えてくる景色がある。街の中でも自然でも、その場に自分の身体が馴染んで行くのを感じる。
動画を撮っているとより滞在時間が長くなり、カメラを回しいる間は何もすることがなく、ぼんやりを景色を眺めていたりする。そんな風に何もしないでいると、風や音に包まれて、身体がその場に溶けて行くのを感じることがある。

その場にいることを自然(場)が許容してくれる様な感覚に包まれるのだ。

カメラを通し初めて目にする光景、文章にして後から気づかされること。目の前に広がる世界は自分で思うよりもずっと広大で深く、その不可思議に触れることが、なぜかとても幸せなことだと感じる。

目の前にある景色の先を、その向こう側を、このささやかな小さな旅にまたご一緒してもらえたら嬉しいです。

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