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ため息俳句 冬晴れ

 現在の自分の心の重荷になっていることのひとつが、手持ちの本の整理ということがある。自分としては、大した量ではないと思うのだが、妻は「邪魔だから、あなたが死んだら全部古紙回収に出してしまうからね」と言い放つ。
 そうであるから、もう新たに本は購入しないと決めていてうかつに書店にも古本屋にも近づかないようにしているのだが、ただ見るだけだぞと己に言い訳して入店してしまう。特にショッピングモールなんぞには大手のチェーン店などがあって立ち並ぶ書棚の間をついうかうかと歩き回ることになる。
 図書館、古本屋、書店の書棚の間を徘徊する癖は、まるで宿病化していて、その結果家人に疎まれるほどの邪魔ものが溜まってきたのだ。
 溜まっているものは、そのうち読もう、いづれ必要になる時が来る、いやーこれは読んでおかなくてはとかとか思って購入してそれっきりになっているものが半ばを占めていて、その上、手に取って読み進めたはよいが、バカバカしいと思って放り出した「高尚な文学」ものと、自分のおつむではまったく歯が立たないちんぷんかんぷんの「怪しい哲学書」なんぞ、とっくに
処分すべきであったものまで捨てずにある。我ながらけち臭く感じる。
 
 そんなことを書くつもりではなかった。
 散歩に持ち歩く小さなバックを先ほど開けると、「一億三千万人のための『歎異抄』」高橋源一郎著という朝日新書が入っていた。
 すっかり忘れていた、二週間ほど前、自転車でちょいっと出かけた時に、トイレを借りようと立ち寄った書店で、購入した。年をとると排尿ですらうまく抑制できなくなる、せっぱつまるのだ。
 昔から高橋先生の本の書名のつけ方はいかがなものかと思っていたのだが、今度もそうだ、この手の書名を見ると、大昔「一千人のよる」とかいうエロ雑誌があったのをすぐに連想するのだ。ガキの自分見てはいけないないもの見てしまったという罪悪感のトラウマ?かも知れない。そんなことでつい買ってしまった。それに『歎異抄』でもあるし。

冬晴れや仕舞ひしことすら忘れたる

セロリ噛むエロ雑誌ほん一冊少年期


 
 いづれにしろ今度の旅行の間に読んでしまおうと思った。行く先は、よりにもよって、大混雑中の西の方、阿弥陀様を拝むことも出来そうであるし。
今日のブログは、これを書いておきたいと思っただけだ。

 さて、本の始末、どうしよう。
 売りにゆこうか。
 冬晴れの穏やかな昼下がり。
 でも、あてもないのだが。


碧空あおそらに冬月みえて書を売りに

小春空今日を限りと予報あり