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ため息俳句番外#39 愉しみのコスト

 人それぞれに愉しみということは、あってほしいものだ。
 それは、千人いれば千通りのありかたであるだろう。世の中のは、職業としての仕事に喜びや楽しみを感じている人は少なくない。だが、ここではそうした生業を離れて、普通にいうところの趣味のようなものから得られる愉しみについてである。
 通常そういう愉しみは実益を求めておこなうわけではない。それでもその道に長ずると、実益につながることあるようだ。
 無知を承知でいうが、noteでは自分のコンテンツを販売でき仕組みがあって、自分はその方面はちんぷんかんぷんだから、たいしたものだとひたすら感心するだけだ。
 一時、仕事関連での専門雑誌などに寄稿していた時期がある。苦労のわりに原稿料は僅かであった。しかし、仕事に追われるなかで依頼されたテーマでものを書くというのは楽しいものであった。担当の編集者と話すのも、日ごろの自分の仕事を客観的に見直す機会となって、有益だった。これらは原稿料以上の執筆への報酬であったように思う。
 多分、noteでの販売をなさる方の一部の人は、あの頃の自分と同じような気持ちであるかも知れない。自分の作品が評価されて、商品として、他者の手に渡り、対価を得る。これは、実利や金額の問題ではないのだろうと。

 さて、妙な冒頭になってしまった。どうも、脳の老化のせいか、筋だった志向ができない。ついとんでもないことを、言い出してしまうのだ。

 実は、愉しみごとも、物価高騰の折、立ち行かせるのが辛くなってたまらんよ、そういう愚痴をこぼして少し憂さを晴らしたいというのが、本稿に取りかかった動機である。

 家庭菜園を初めて十年以上経っている。その程度の経験ではあるが、野菜作りの一年間のスケジュールはほぼ頭に入ってきた。
 4月に入ると、夏野菜作りの準備に入る。つまり茄子・きゅうり・トマト類・西瓜・ピーマン・唐辛子類・トウモロコシ・ゴーヤ・オクラ・枝豆・水菜・空心菜、これらは昨年、作ったものだが、これら以外のものもあって、年によって変わる。
 そういうわけで、今年は、キュウリ・西瓜・トマト・トウモロコシは苗を作ることにして、先日種屋さんに行った。やはり、値上げされていた。または、一袋に収められている種の数が減っていった。
 種はポットに蒔き、一定の大きさになったら、畑に植え変えるのだ。その種まきの用の土も自分が思っていた値段を越えていた。
 種屋さんの店先には、既に茄子・きゅうりを初めとして苗は販売されているのだ。それの苗の値段も、ものによっては数十円は値上がりしている。当然のこと、化学肥料だって、農薬でだって、言わずもがなである。

 退職後はといわず、一定の年齢を越えると、なぜか土いじりがしたくなるらしい。農耕民族のDNAがなせることか。さらには、「晴耕雨読」なんてことにあこがれを持つ方もおいでだ。意識の高い方は「自然農法」やいかにと、手を染める方もいよう。しかし、それが気楽な愉しみとは言えなくなってゆくかも知れない。
 現に自分からして、種屋の店先で腕組みしてしまったのであるから。さようの通り、茄子一つ、キュウリ一本、タダではできないのだ。

 愉しみを得るにはコストがかる。趣味のほぼ同意語に「道楽」という言葉がある。道楽となると本業以外の道にふけって、さらには、身をも滅ぼしかねないという感じになる。まして、道楽三昧のあげく、もっと進んで、なにやら依存症なんて段階になんてのもまっ平御免だ。
 だが、これまでのような愉しみは持続したいのだ。自分は、家庭菜園にそれほどの熱量を感じているわけでないし、もっと年取って農作業に身体がもたなくなればそれまでだと思っている。それでも、愉しみは守ってゆきたい。

 この物価高騰を政治的経済的にどのように収めることができるなか、自分にはわからないが、何とかせねば、我々のささやかな愉しみさえ失うことになる。そろそろ、よくよく考えることが、まず第一だ。

 花鳥風月に世知辛い憂き世のリアルは無縁だとする人々もいるらしい。風雅に「政治」を持ち込むなんて、始めから場違いだと相手にしない人もいたらしい。
 だが、それは、何か重要なことをごまかしていることになるだろう。