水曜日の窓辺
どことなくふれあった俳句作品についての所感を記録しておくノートのまとめです。
本編の「ため息俳句」には、ちょっと収まりそうもなかった試作的なもの、紀行文など、それと、自分の作品作りへの姿勢など、あれこれです。
折々の花々に寄せた句をまとめてみました。
俳句をたしまなれる方々には世に月並俳句と云われれば、お腹立ちのことと思います。しかし、俳句のよしあしなど皆目見当もつかない老人ゆえ、せめて「月並」と云われたいと願う始まりの25回分のまとめです。番号がついています。これはせめて100回までは続けようというモチベーション保持のためにつけたものです。100回以降は、番号はありません。
娘夫婦は、一晩泊まって、昨日朝、片品の方のロッジへ出かけた。今夕のまた戻ってくる。そして夕飯を食べて、神奈川の自宅に帰るのだそうだ。いい気なもので、家族旅行の中継点に実家を使って、道路渋滞の間隙をねらっているのだ。 それなのに、老妻は孫のためにせかせかとあれこれや思いを巡らしている。食事にしても、あれやこれやと子や孫の好物を用意しようとするのだが、なんせ料理するのは原則自分であるから、いい加減してほしいと、云ってやった。というのは、あれでいつのもように唯々諾々と日和ってし
5月1日は、メーデーの日である。生憎の雨、それに風もある。こんなでは行進も辛かっただろう。行進解散後に、一杯というのが、昔の我らの毎年の成り行きであった。大体が、新橋駅周辺の居酒屋が多かったが、この頃はどうなっているのだろう。 さて、今夜は今年の八十八夜である。 茶摘みの歌のあの八十八夜だ。 これまた月並に云えば一つの日本の原風景をうたっているような、実際にはこんな風景を見たことはないが、どこかで見たような気分に誘われる。困ったことだ。 八十八夜は春から夏
腹八分満つれば眠し四月尽 空茶柿若葉薄く曇るにやや濃くて茄子胡瓜トマト西瓜の苗揃う我が畠の檸檬の花はこぼれけり番わんと追いつ追われつの雀かな自転車を押し来る妻に暮れる春 4月が終わる。 今日は買うべき苗は買い揃えた。 ポットにも、西瓜と隠元とトマト、枝豆、オクラ、ゴーヤが蒔いてある。トマトの芽は、本当に小さくてかわいらしい。隠元はもっさりと芽を出した。他はまだ発芽していない。 静かな夕暮れである。
さて、「不適切にもほどがある」というテレビドラマは、大いに話題になりました。自分も楽しみにしてみていました。 題名の「不適切」というのは、昭和の時代の価値観や生活習慣は、令和の現在から見ると、不適切としかいえないことが、沢山ありましたねえという意味の不適切でありました。 そうではありますか、他方で昭和レトロなどといわれて、様々なことがとりあげられ、若者の間にも昭和風のデザインや町並みのファンが少ないと聞いています。 「不適切にもほどがある」の脚本家宮藤官九郎は実に
益子の陶器市に行った。 四五年ぶりか。 年をとったせいか、茶碗や皿を、角にぶつけてが傷めたり、落として割ったりすこることが、増えた。 普段使いの湯飲みをカミサンがほしいということで、益子まで足を伸ばした。この連休には、陶器市が開かれ、賑わうのだ。 益子町のメインストリートの両脇に所狭しと陶芸家のみなさんが店を列ねている。一寸外れた露地にも、広場にも。この期間はそれらの店々を巡って歩くお客さん達で、混雑するのだ。 何度も来ているので、大凡の目星はつくのだが、新しい発
さて、葉桜の向こう側に、鉄線が咲いている。 鉄線というよりクレマチスの方が通りがよい。 この花が咲くと、いよいよ夏が来ると感じる。 鉄線あけっぴろげに笑いたり 空茶
年をとったればこそ身なりは小綺麗にしなさいというのが、日頃からの妻の自分への注意である。 ともすると、野良仕事の姿で外出しようとしたりして叱られる。とにかく普段着でどこでもでかけてしまうのが、彼女には気になるらしい。 いよいよ夏めいた日が続くに及んで、いつの間にか夏物の衣服に替えられていた。まあ、そういうことについては、小言のうるさい古女房であるが、ありがたことだ。 外しませうクリーニング屋のタグ更衣 空茶 タグをつけたまま、徘徊もしばしばなので。自分への注意喚起で
「馬の耳に念仏」という諺の意味を知らない人はいないだろう。 さて、今日は半年ぶりに上野のトーハクに、足を運んだ。 特別展「法然と極楽浄土」を楽しみに出かけた。 當麻寺の「綴織當麻曼荼羅」が奈良県外で初公開というではないか。そのほか、関東のあちらこちらか浄土宗寺院のお宝が集まってくるらしいとのことだ。 確かに、「綴織當麻曼荼羅」も、知恩院の「法然上人絵伝」はじめてしてあちらこちらの寺に伝わる「絵伝」などなど、二時間余りかけて、比較的ゆっくりと拝見。自分の乏しい知識を総
過日の琵琶湖周辺を巡った旅で、余呉湖に立ち寄った。琵琶湖の北にある湖である。賤ケ岳によって琵琶湖から隔てられる。 源頼綱の歌に、 帰る雁 声をほにあぐる 時しもあれ 南より吹く 余呉の浦風 (千載集) などがあり、歌枕の地である。 芭蕉の門下の路通の句にもある、路通は近江蕉門。 鳥共も寝入てゐるか余吾の海 ここは、湖岸の桜が有名で、その桜を見に立ち寄ったのであるが、今年の不順な開花の遅れで、蕾は膨らんでいたが蕾は蕾でしかなかった。 折しも、例年のように桜
「七番日記」から、梟は春の季題。 鳩、いけんしていはく 梟よつらくせ直せ春の雨 一茶 《鳩が諫めて言った 《梟よ一癖有りそうな顔つきを直しなさい。春の雨がほのぼの降っているだろう。 「つらくせ」とは、「面癖」、つい心の内が表情に出てしまう癖のことです。 これは、人ごとではなく、自分もそうで女房や子供から、しばしば注意を受けています。 仏頂面。胡散顔。浮かぬ顔。託(かこ)ち顔。賢し顔。鹿爪顔。しかめっ面。渋っ面。 何と多彩な面癖だろう。 いくら言葉をとり繕
行く春や白Tシャツを買い替えに 空茶
三橋敏夫「真神」(昭和48)所収の句。そうはいっても、この句集を読んいるわけではなくて、孫引きであります、すみません。 先に謝っておきたいと思います。ここにあげたのは、小生の助平こころのせいかもしれません。お恥ずかしいです。 昔、新興俳句運動という伝統重視の俳句にして若干ラジカルそうなムーブメントあったらしいとは、俳句作り初心者の自分も知っています。作者はその集団で最年少であった方だそうです。誰が読んでも濃厚に官能的な句であると感じるでしょう。今の時代であればさほど刺
日常の買い物に使えるショッピングモールはなら数か所、アウトレットはもある。県境を越えて少し車を走らせて時折行くところなら、更にいくつか。 それぞれに特色があるのだろうが、自分の目にはみんな同じように見える。どこに行っても、見知らぬ街のようである。空想上の街のようにも感じる。 どことなく落ち着かないのだ。 消費にある種の快楽を感じるということは、自分だって身に覚えがある。ショッピングモールはその快楽に身をゆだねなさいと誘惑するきらびやかな装置のようだ。その辺で、疑い深い
春の畑にはモンシロチョウが似合うのである。 だが、菜の花の上をひらひらと飛ぶ交う長閑な風景を手放しで楽しむことは、できなくなってしまった気もする。たしかに、何頭ものモンシロチョウが忙し気に、あちらこちらへ飛び回る姿を、昔はかわいらしいと感じたものだ。 であるが、そのモンシロチョウは、野菜作りからいえば、まったく厄介な害虫であるのだ。葉物野菜、特にこれからならキャベツであるが、それらを喰い荒らすアオムシは、モンシロチョウの幼虫時代の姿である。 そう云うわけで、「世の中に
ちょとした出来こころで、老人の閑の埋め草にと、noteの軒下をお借りして、二度目の春も暮れようとしています。 いつまでも「俳句もどき」を言い訳にサボるのはたいがいにしようかと、後期高齢者とよばれる直前にふと思い立ち、それでは先人、同時代の皆様の作品を至らぬながらも理解の及ぶ範囲ながら、一句づつ読ませてもらおうかということにしました。そのあたりで思うこと感じたことを記録してしてゆきます。つまり、年寄の冷や水的なお勉強です。徘徊老人です。つきまして、無知と老いゆえの言いたい放
所用の帰りみち、緑の王国という植物園に立ち寄った。 日ごろ四季折々の移ろいを夫婦で見てきた、なじみの公園である。 ささめくや重なり明かし花水木 空茶たくさんの言葉を濾しぬ花水木老い二人おのおの生まれ別に死ぬ 花水木の季節である。 もうすぐに夏がやってくる。 昔、就職して間もない頃住んでいたアパートは旧甲州街道に面していて、歩道は花水木の並木になっていた。 木造二階建ての一階東角部屋であった。 仕事はとてもきつくて気の重い朝が続いていた。 そんなある朝、ドア