現代語訳『睦月連理𢢫(睦月連理玉椿)』その2

 勝手《かって》の方から女将《おかみ》の声が聞こえてくる。
「ああ、湯取《ゆと》り飯《めし》の加減を見て、芋《いも》と麩《ふ》を薄醤油《うすじょうゆ》で炊いて出してくれ。またしょっぱくして、おさんの舌に合わない味にするんじゃないよ」
 やがて、襖《ふすま》を押し開けて女将《おかみ》が部屋に入ってきた。
「おさん、今宵《こよい》の熱は高くないか。気分はどうだ。して欲しいことがあれば、何なりと皆に言い付けるがよい。遠慮するとお前の損。気ままに過ごすのが養生だ。どうやら今夜はあまり顔色がよくないようだが、しっかりするんだぞ。病は気からと言うからな」
 背をさすって看病しながら、女将《おかみ》は震える涙声で話を続けた。
「なあ、おさん。これから話すことは初めて口にするが、改めて言わなくてもきっと分かっているだろう。他の奉公人たちとは違い、お前は七歳のときに引き取ってからずっとこの家で暮らしている。どうした宿縁《しゅくえん》の行き会いかは分からぬが、あたしら夫婦は子に恵まれなかった代わりに、お前を実の子以上に大切に思って育ててきた。目が開かぬ赤子のまま世に出ては困るだろうと、いい師匠を吟味し、縫い物、綿《わた》摘み、読み書きなどを習わせた。世間の子どもたちに負けぬよう、劣らぬようにと、縫い立て、仕立て、模様好《ごの》みを覚えさせた。夏の暑い日に、お前に菅笠《すげがさ》を買ってやろうと言った日のことを覚えているか。いや、あたしよりもあの人の方がいつも気を揉《も》んで、呉服屋が来るのを待ちかねて現金を持って店へと走り、目を懲らして紅絹《もみ》の絎紐《くけひも》を選んで買った日のことを覚えているか。それに、お前が家を出るときはいつも表の格子《こうし》の前に出て、後ろ姿を見送らぬ日は一日もなかった。今では、世間さまから『あの金村屋のおさんは器量よしの器用者だ』と褒めていただくまでになったのが、あたしらはとても嬉《うれ》しい。ひょっとしたら、いつかお前で大儲《もうけ》しようと、あの人が欲をかいているのだろうと思っているかもしれないが、そんなことは絶対にない。何かお前の気分を害することがあったのかは分からぬが、先日、お前が年季《ねんき》手形《てがた》を持ち出し、年の繰り日を確認したのには驚いた。自分の子だと思い込んでいたのに、お前に『百枚、千枚の手形《てがた》を取ればいい』と言われたあの人はすっかりしょげてしまった。この屋敷や家財は言うまでもなく、うちの田畑もすべてお前のものだと思っていたのだ。あたしらには何も隠し事はないのに、お前の心には口にできぬ秘密があるのだろうと、愛しさ余って恨めしいが、とにかく今はしっかりと心を落ち着かせて早く達者になっておくれ」
 女将《おかみ》の包み隠さぬ本心に、おさんはしゃくり上げた。
「あまりにもったいない話です。わたしに罰が当たらなければ、いったい他の誰に当たるというのでしょうか」
 主《あるじ》たちの恩義と伊八《いはち》の義理に挟まれ、どちらを選ぶこともできぬままつらい思いに心がかき乱された。
 そこへ、金村《かなむら》屋の亭主が外から帰ってきた。
「かかあ、そこにいたのか。どうだ、おさん。もう何か食べたか。帰りに道三《どうさん》様に寄って朝鮮《ちょうせん》人参《にんじん》を頂戴してきたぞ。これは加減が必要な薬だから、その場で調えてもらった。おさん、このように世話を焼くのも、お前を達者にして、俺たちは隠居させてもらわねばならぬからだ。今度の薬はよく効くらしいぞ。本通りで八重桐《やえぎり》の芝居小屋を少し覗《のぞ》いてきたが、その際に『肝心要《かんじんかなめ》の人参《にんじん》が効いた。狂言ができて芝居が持ち直した。狂言が効いた』という辻占《つじうら》を売っていた。おさん、喜べ。全快祝いの八重桐《やえぎり》の桟敷《さじき》代は俺らが出すからな」
 亭主は、翌日に揉《も》めることになるとは夢にも思わなかった。
「それなら、お前さん。今日こそあたしたちの思いの丈《たけ》を、すべてこの子に話してやってくださいな」
「おうおう。――これ、おさん。早く達者になってくれ。お前が心に思う男を早くうちの婿《むこ》に取り、この家をお前の名義にして、俺らに千秋楽《せんしゅうらく》を歌わせてくれ」
 病人を励まそうとする二人の心尽くしに、おさんははらはらと涙ぐんだ。
「恩人である旦那《だんな》さんと女将《おかみ》さん、この先、どうなるか分からないのでお伝えしておきます。幼き頃からこの上なくお世話になりました。明日も分からぬ我が身の上で、もしこの恩を返さぬまま死んだら義理を欠くことになってしまうのが心残りでなりません。ただ一筋にわたしを大事にしていただきましたこと、思い返すだけで胸が引き裂かれそうで、嬉《うれ》しくも悲しく、お伝えしたいことも口にできません」
 おさんがわっと泣くと、二人は泣きそうな顔でおどけながら答えた。
「その旦那《だんな》さんと女将《おかみ》さんとは何事だ。どうして父《とと》さま、母《かか》さまと呼ばぬのだ。我らをまた泣かせるつもりなのか」
 金村《かなむら》屋の夫婦はおさんの心内を知らなかった。鶯《うぐいす》の巣で育てられた時鳥《ほととぎす》の雛《ひな》は、我が子であっても鶯《うぐいす》にはならず、闇を歌うことしかできないのだ。
 やがて鶏《にわとり》が、既に夜半を過ぎたことを告げた。
「さあ、かかあ。早く行って寝よう。おさんも休め。炬燵《こたつ》の火はきつくないか」
 二人はあれこれと世話をして部屋を去った。
(続く)

参考文献
『名古屋叢書〈第14巻〉文学編(一)』(名古屋市教育委員会)