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現代語訳『さいき』(その18)

 手紙の最後に歌と共に、佐伯《さいき》が都を立つ際に形見として渡した鬢《びん》の髪が添えてあった。

  見る度《たび》に心尽《こころづく》しのかみなれば宇佐《うさ》にぞ返《かへ》す元の社《やしろ》へ
 (目にする度に心がかき乱れますので、この髪は宇佐《うさ》神宮にお返し致します)

(続く)

 手紙には佐伯の髪と共に、「形見の髪を返す」という趣旨の歌が添えられていました。「これ以上は耐えられないので、あなたのことをできるだけ忘れるようにします」という、女からの離縁状と言えます。

 なぜ髪を返す先が「宇佐神宮(宇佐八幡)」かというと、佐伯がいる豊前国《ぶぜんのくに》で最も有名な神社である上に、「その6」で触れたように佐伯の一族が宇佐神宮にゆかりがあるためですが、女の気持ちを率直に表現した「憂《う》し」(つらい)という意味も込められていると思われます。


 ――以下、いつもの長めの余談です。

 歌の表の意味となる「心づくしの『神』を宇佐神宮に返す」については、結論から言うとよく分かりませんでした。

「神を返す」ということは、すなわち現在は「神を迎えている状態」です。このケースに当てはめると「宇佐神宮から八幡神を勧請した八幡社」になりますが、清水寺は八幡社ではありません。また、宇佐神宮の「八幡神(八幡大菩薩)」と清水寺の「十一面千手観世音菩薩」を同一視したという説や、宇佐神宮と清水寺の間に関係があったという情報も見つけられませんでした。

 ひょっとしたら、作者は「清水寺」と名前が似ている「石清水八幡宮」と混同していて、「石清水八幡宮に勧請されている八幡大神を宇佐神宮に返す」と言いたかったのかもしれません。かなり強引ですが、この作品は地名にやや不慣れなところがありますので、絶対にあり得ないとも言い切れません。
(「石清水八幡宮」の前身で「石清水寺」という名前の寺院があったそうですが、「清水寺」とは別物で場所も異なります)

 別の可能性としては、現存する『さいき』は改作されていて、オリジナル版で女がいたのは京都ではなく「鎌倉」で、いつも祈っていたのは「鶴岡八幡宮」だったのかもしれません。
 なぜ数ある八幡社の中で「鎌倉の鶴岡八幡宮」なのかというと、「その12」で触れた「鎌倉へ下りける僧」という謎の表現問題に一応の説明ができるからです。
 この場合、佐伯が訴訟にやって来たのも鎌倉となりますので、京都に六波羅探題が設置されるよりも前――承久の乱以前(鎌倉初期)の出来事になります。ただ、作品の表題を『さかき』とする底本もあり、初版の男も同じ「九州出身の佐伯」だったかは非常にあやしいです。

 それでは次回にまたお会いしましょう。


【 主な参考文献 】


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