現代語訳『睦月連理𢢫(睦月連理玉椿)』その1

 かつて、在原《ありわらの》業平《なりひら》が小野《おのの》小町《こまち》の霊と交わし合った歌のように、そよ風が吹くにつけてもいら立ち、野辺《のべ》の糸薄《いとすすき》の穂のように心が揺れていた。恋の闇のために心細く、夜空の澄み切った星の光が目に染み、その煩《わずら》わしさに嘆きながら袖で顔を覆う。錏《しころ》頭巾《ずきん》姿の畳屋《たたみや》伊八《いはち》は、秋でもないのに霧に包まれて春の蝶《ちょう》と隔てられた気分で、心がかき乱れたまま、まるで羽根が霜《しも》に打ち萎《しお》れた鳥のようにとぼとぼと、急げば地に足が着かぬまま葛《かづら》町の遊郭へと向かった。
 金村《かなむら》屋にたどり着いた伊八は、向かいの軒《のき》にたたずんで中の様子を伺《うかが》った。同僚の女郎《じょろう》たちは既に上がった後らしく、店の中は静まり返っている。
「おさんはどうしているだろう。とにかくも会って、一言でいいから言葉を掛けたい。姿を見たい。話をしたい。恋しくてならぬ」
 手はず通り、足下の石を二つ拾い上げて火打ち石のように打ち鳴らした。相手を待つ間、このまま消え去りそうな我が身の頼りなさと情けなさにしおれ、涙が地面に零《こぼ》れ落ちた。
 やがて、合図の音を聞きつけたおさんが忍びながら表へと出てきた。見ると、伊八がまるで冬風で凍った雪の鷲《わし》のようにしょんぼりとしている。
 おさんは顔を曇らせ、涙を流しながら消え入るような声で言った。
「お前さまに逢《あ》いたかった。けれど、そんなにひどい様子なら、わたしのことは気にしないで早く家に帰ってください」
 伊八の袖元も涙で濡《ぬ》れた。
「すべてを話すと長くなるが、俺の身の上はそなたも知っていよう。今さら言うまでもないが、女しかいない女護島《にょごのしま》から美人だけを選び、三千の化粧と天界に住まう神々の真理と一緒に恋で固めても、そなた一人とは到底比べものにならぬ。だが、一番の悩みは、俺には知恵も腕力も才覚もなく、何もかもが手詰まりなことだ。南部《なんぶ》屋の会所《かいしょ》で、五百石《ごく》の油を売った直後に二厘《りん》上がり、それなら千石を買って様子を見ようと思っても、必ず戸に行き当たる。その後、三分《ぶ》値下がりし、これはまずいと次々に手を打っても、世間で言うところの『外法《げほう》の下り坂』(妖術は一度失敗すると取り返しが付かない)という奴《やつ》で、貧乏神に己《おのれ》の腰を押され、鉄砲の弾に帆を掛けられ、膨れ上がった損失は今や五十三貫目《かんめ》を超える。友人や仲間は言うに及ばず、あらゆる知り合いに嘘《うそ》八百をつき続けながら、その日暮らしの毎日だ。しかも、世話になっている畳《たたみ》屋に質草《しちぐさ》として預けてあった吉光《よしみつ》の刀を座敷から盗み出し、別の者に頼んで質入れして金を用意した。この不埒《ふらち》な行動は、どんなに詫《わ》びても詫《わ》び切れない。しかも、聞いてくれ。何とか金を工面して取り戻した刀だが、荻野《おぎの》八重桐《やえぎり》の芝居を見に行った折に人と喧嘩《けんか》をした際に、盗み取られてしまったのが運の尽きだ。立っていても座っていても、もはや借金で身動きが取れぬ。名古屋での暮らしも今宵《こよい》限りとし、江戸にいる知人を頼り、一稼ぎしようと思い立った。しかし、果たしてそなた一人を残して立ち去ってもいいものだろうかと我に返った。最近は腹が据わり、金のことは少しも苦にならなくなったものの、とにかくそなたが苦しむのではないかと考えると、飯が喉を通さなくなり、やたらと浴びるように大酒を食らった。だが、酒が命を支えてくれているのだろうか、どれだけ呑《の》んでもまったく酔うことができない。いっそこのまま腑抜《ふぬ》けになってしまいたい」
 おろおろと涙ながら伊八は語った。
 おさんも涙を流し、しゃくり上げながら言った。
「何とも恨めしいお言葉。先ほどのお前さまの話だけが真実だと言うのですか。お前さまは決して口にはしないけど、女郎《じょろう》の悲しさは嘘《うそ》を売るのが商売だと、心の中で深く疑っているのが分かっているから、なおさらつらい。嘘《うそ》か誠か偽りか、胸の鏡の蓋《ふた》を取って心を映し、お前さまに見せて死んでしまいたい。以前に話した通り、七歳のときに金村屋に売られて十五年経《た》ちます。旦那《だんな》さんや女将《おかみ》さんから受けた受けた恩に背くことにはなるものの、年が明けた次の正月にはこの地獄の苦しみから逃れ、晴れてお前さまと夫婦《めおと》になれると思っていました。この先、どのような人生を歩もうかと、年が明けるまでの日々を指折り数え続けていました。これは諺《ことわざ》で言う『盲亀《もうき》の浮木《ふぼく》』や『優曇華《うどんげ》の花』のように滅多《めった》にない幸運で、お前さまと一緒にどんな生活を送ろうかと楽しみにしていたのに、いきなり出端《でばな》をくじかれました。先日、年季《ねんき》手形《てがた》を見て驚愕《きょうがく》しました。年を数え間違えていて、さらに一年先の正月までだったのです。はっと思って力が抜けた直後から床《とこ》に伏せ、気の病になったのはいったい誰のせいでしょうか。知らず知らずのうちに涙が零《こぼ》れ落ちてしまいます」
 おさんの袖は露《つゆ》と涙に濡《ぬ》れた。
「俺から言いたいことはたくさんあるし、そなたから聞きたいこともたくさんある。だが、ここでは他人の目が気になる。取りあえず、中に入ろう」
 裏口の戸を開け、手を取り合って密《ひそ》かに入り、おさんの寝床へと向かった。伊八は後ろの押し入れに入ると襖《ふすま》を締め切り、二人は枕を隔てて夜もすがら語り合ったが、その内容は神様もご存じなかったようだ。
(続く)

参考文献
『名古屋叢書〈第14巻〉文学編(一)』(名古屋市教育委員会)