現代語訳『我身にたどる姫君』(作品紹介)

今回から古典作品『我身《わがみ》にたどる姫君』の現代語訳をお届けします。
恐らくほとんどの方にはあまりなじみのない作品名だと思いますので、初めに簡単に紹介をしておきます。
なお、内容にも軽く触れますが、ストーリーに関わるネタバレは極力避けています。

『我身にたどる姫君』は、鎌倉時代に成立した王朝(後宮)物語です。
「擬古《ぎこ》物語」と呼ばれるカテゴリーに属する作品で、「ベストセラーの『源氏物語』を模倣して作られた平安風・恋愛小説」と言えば、イメージがつかみやすいと思います。作者は不明。

全八巻・二部構成で、作品名にもなっている「我身にたどる姫君」(自分の出自を知りたい姫君)を中心とした「第一部」(第一~三巻)と、第一部の登場人物たちの子孫を群像劇的に描いた「第二部」(第四~八巻)に分かれます。
第二部にも「我身にたどる姫君」は登場しますが、年を重ね、新しい時代や若い人々を見守る側に回っています。『源氏物語』を意識した構成ですが、女性主人公の一生を描く朝ドラのプロトタイプとも言えますね。

『我身にたどる姫君』を一言で表現すると、「王朝スキャンダルの物語」です。
(性的)スキャンダルは王朝物語の定番ですが、この作品は特に顕著で、「スキャンダルの過激さが売り」と言っても過言ではありません。
どれくらい過激かというと、作品の解説文に「異彩」「退廃」「錯綜《さくそう》」「耽奇《たんき》」「病的」「烏滸《おこ》」「変態」といった言葉が並ぶことからもうかがい知れると思います。

中でも有名なのは「女性同性愛」で、しばしば「女性同性愛を扱った最古の物語」として作品の代名詞のように紹介されます。
「男性同性愛」的な描写も含まれているのですが、そちら方面はもっと露骨な作品があるため、ほとんど話題に挙がりません。また、そもそも同性愛描写はどちらも全体からみるとごく一部です。

はっきり言って、『源氏物語』のように上品な文学作品ではありません。
ここで描かれるスキャンダルは、ときには目を背けたくなるほどに生々しく過激で、多くの文学者から忌避され、果てはネタ作品として扱われてしまうほどです。

しかし、これらはすべて人が動いた結果です。
その原因を追及すると、作品のテーマである「心の弱い人々の愚かさ」にたどり着きます。

「心の強い人」は言い換えると理性的で、たとえ困難に直面しても耐え忍び、冷静に分析・対処しようとしますが、対する「心の弱い人」は感情的・本能的で、心の赴くまま自己中心的に行動します。
男女関係で後者のように振る舞う人を「好き者」と呼び、「情が深い人」として許されてしまうのがいわゆる『源氏物語』の世界なのですが、同じ世界観(フォーマット/テンプレ)を用いつつ、彼らの愚かさと罪深さにスポットを当てようとしたのが『我身にたどる姫君』だと個人的に思っています。

少し言い方を変えると、作者自身が二次作品だとわきまえつつ、オリジナル『源氏物語』が見て見ぬふりをした「好き者たちの罪」を悲喜劇的に描いたのが「我身にたどる姫君」です。

さて、これはすべての「擬古《ぎこ》物語」に共通して言えることですが、最初から二次/テンプレ作品として書かれたものを、オリジナルと比較して文学性の優劣を議論するのはほとんど無意味です。
極端な話、平安時代を舞台にしたラノベやマンガに対して、「『源氏物語』と比べてどちらが文学的に優れているか?」と論じるのと何ら変わりません。
比較は構いませんが、別の時代・別ジャンルの作品ですので、同じ土俵で評価するのは筋違いだとわたしは思います。
(『源氏物語』は最初の王朝物語ではありませんが、ジャンルとして完成させたのは『源氏物語』で、一作品単体でジャンルが完結していると言ってもいいかもしれません。)

以上のように、『我身にたどる姫君』は一癖も二癖もある作品ですが、要は王朝文学の皮を被ったエンタメ系小説です。
小難しいことが書いてあっても表現上のアクセントで、ストーリーにはほとんど影響しないため、朝ドラやラノベの感覚であまり気にせず、さらっと流し読みして楽しんでもらえるといいかと思います。
また、もし余裕があれば、行間から作者像や当時(鎌倉中期)の社会情勢に思いを馳せるのも面白いと思います。

そんなこんなで、しばらくのお付き合いとなりますが、よろしくお願い致します。
また、不備などがありましたらご指摘いただけると幸いです。



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