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現代語訳『さいき』(その25)

 正室の出家を知った京の女はひどく驚いた。
「身分の上下にかかわらず、愛する人を奪われたら嫉妬するのが世の常だというのに、何と情の深い心延《こころば》えでしょうか。そもそも、わたしがあの人と再会して積年の思いを果たすことができたのは、奥方の情けのおかげです。このように殊勝な方をお一人で捨身《しゃしん》させたまま見過ごすわけには参りません。不肖ながら、わたしもご一緒します」
 すぐに髪を切り捨て、正室と同じ庵《いおり》に籠《こ》もって勤行《ごんぎょう》に励んだ。
 また、二人に捨てられた佐伯は、生きる気力を失って放心状態となったが、やがて髻《もとどり》を切って西の方角に投げ捨て、高野山《こうやさん》へと向かった。

 その後、三人は仏道修行の末に救済《くさい》され、極楽往生の本懐を遂げて阿弥陀如来《あみだにょらい》・観世音菩薩《かんぜのんぼさつ》・勢至菩薩《せいしぼさつ》の三尊《さんぞん》になったという。
 誠にありがたくも尊い、清水寺の十一面千手観世音菩薩《かんぜのんぼさつ》の慈悲である。

(了)

 正室の出家を機に、京の女・佐伯の二人も続いて世を捨てます。
 動機はそれぞれ異なり、京の女は正室の温情に対する感動、佐伯は二人に捨てられた絶望ですが、最後は三人とも極楽往生しました。

 物語は今回で最後となりますが、あと少しだけ補足説明にお付き合いください。(現代語訳は終わりましたが、もう少しだけ解説が続きます)


 ――以下、やや込み入った話ですが、物語の流れには影響しませんのでさらっと流してください。

 最後に三人が仏になったことが示されましたが、この箇所には面倒な問題があります。

「阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩」は「阿弥陀三尊」と呼ばれる仏で、清水寺の三尊(観世音菩薩・地蔵菩薩・毘沙門天)とは異なります。しかも、「菩薩」(修行者)よりも「如来」(仏)の方が格が上ですので、「清水寺の菩薩が格上の如来を救った」という、奇妙な構造になっています。
(仏になる前の人の救済なので絶対にないとは言えませんが、これを認めてしまうと恐らく宗教戦争が起きます)

 一方、「その18」で触れた「八幡神」は、鎌倉時代以降の本地垂迹説で「阿弥陀如来」や「釈迦如来」と見なされたため、救った三人が「阿弥陀三尊」であっても格の矛盾は発生しません。ここでも「オリジナル版の女の出身地は鎌倉で、頼みにしていたのは鶴岡八幡宮」説を裏付ける内容となっています。


 それでは次回にまたお会いしましょう。


【 主な参考文献 】


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