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元夫という人

つい先日、元夫からメッセージが来た。
前述のように、13年前に離婚をしてから少しずつ交わす必要のある物事も少なくなり、娘が自立してからは特に、ここ最近はお互いの誕生日を祝う習慣だけが残っていた。


そんな折「釣りに来ているんだけれど、鯛いる?」と。

あいにくその日は、私が終日自宅を留守にしていて受け取るタイミングが合わないので、
ありがたい申し出だったけれど見送ることになった。
「了解!」と軽快な返事が返ってきて、なんだか私たちのやり取りの軽さが妙に可笑しく、この世界の不思議に自然に心ひかれるような気持ちになった。

離婚するに至るには、とても書き切れない悲喜こもごも愛憎混じり合うストーリーが膨大にある。
渦中は、生き地獄のようにも無間地獄のようにも感じ、呼吸の仕方すら忘れるような時を、生身で味わい続けるような苦しみだった。
それらを忘れることはないし、過ぎたこととして綺麗にまとめるつもりもない。そもそも、まとまりようもない。

だけれど、それらはそれら。
私たちが共有し合ったストーリーで、私たちそのものではない。
ストーリーの内容やそこで味わった様々はさておき、そのような稀有な体験を共にできたこと、それらを体験することを赦しあえたのは、他でもない私たちだった。
それに、よくよくストーリーを振り返ってみると、喜びや幸せに満ちたページも沢山あった。

そのことが13年前、離婚したまさにその時に強く私の中で響いて、この感覚が忘れないうちに、そしてまたもし暗いストーリーに呑まれて戻れなくなってしまわないうちにと、元夫に大急ぎで伝えたことがあった。
その時の元夫は、これまでに見たことのないような神妙な面持ちで、空を仰ぐように上を向いた姿を今も鮮明に覚えている。
渦中、どうしても伝わらない、相容れなかったもどかしさが、一瞬その日の青空のように、綺麗に晴れ渡るような気持ちになった。
大切な何かが伝わり合った感触があった。
この時私たちは、あるストーリーの一幕を無事に閉幕し終えたのかもしれない。

私は、元夫とのストーリだけに限らず、許すということがどういうことか分からないときが長くあった。
鬼にも夜叉にも悪魔にも何にでもなるし、なんならそれらそのものがこの私の全てだと、それで構わないと心から思うときも沢山あった。
むしろ、許すということにフォーカスするだけで、自分自身が粉々に砕けてしまうような感覚を味わう苦痛があった。

だけれど…..

それで粉々に砕け散ってしまうのは私の中の観念で、そんな観念が砕け散ってしまうとしたらそれは祝福だ。
本当の私のようなものは、何にも影響されないし、砕けてしまうようなものでもない。
全ては幻想だ。

そうは言っても、手を変え品を変え、これに限っては幻想ではないのではと思えるような現象の前で、何度も何度も砕け散るような怖れや苦痛の波に翻弄されながら、それでも今のところ例外なく、それらは全て幻想で、どうあろうと変わらない静かな境地があり、そこに居続けている。ことに気づいている。
喜ばしいことのはずなのに、なぜかエゴ(にくっついた観念)は、その例外のなさに降参というか、諦めるしかないのかと感じるから不思議だ。

降参とばかりに自分を明け渡し…
そうするといつの間にか苦しみの輪廻から外れていた。

やはり、元夫には感謝しかない。
今世も出逢うべくして出逢い、大切な境地に気づかせ、導いてくれた同志だった。






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