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わたしは「感化」されたい。

「純度100%のわたしとは何か?」について考えたことがある。

その結論は「そんなものは存在しない」であった。もしあるとするならば、あらゆるものから守られていた『胎内』かもしれない。

この世に産まれ落ちた瞬間から、わたしたちは他者の影響を受け続けている。それを回避することは不可能だ。

家族、友人、恋人、先生、同僚、本の著者、顔見知りの客、他者のさまざまな断片の集合体が「自分」である。

それくらい、一緒にいる人が自分の人格や人生をつくるのだと、このところつくづく感じている。

そこに情動と行動は生まれるのか。

教室という箱に詰められていた子どもの頃は、毎日を一緒に過ごす人を自分の意思で選ぶことはほとんどできなかったが、大人になるにつれて付き合う人はずいぶんと選べるようになった。

通常、仕事の人間関係についてはガチャ要素はあるものの、友人や恋人(将来の家族)については、わたしたちは自分で選ぶことができる。

今のわたしは、どのような人と一緒にいたいのだろうか。もっと言えば、どのような人であれば「自分の一部」となることを許せるのだろう。

そう考えてみると、一言で言えば「感化」される相手であると気がついた。感化されるとは、心を突き動かされ、価値観の変容や実際の行動に結びつくような影響を自然と受けることだ。

あの人の見ている世界をもっと知りたい。
あの人のように在りたい。
もっと自分も素敵になりたい。
こうしてはいられない!

そんな気持ちが湧き上がってくる人と、ともに時間を過ごしたい。心の中で思わず駆け出すような瞬間が、人生でたくさん欲しい。

感化されるという心のはたらきは、自分にとっての勇気と希望であり、相手への尊敬であると思う。

無害の皮をかぶった、居心地のいい有害。

自分の世界になんの影響ももたらさない人と一緒にいても、新しいことは起きないし、気づきも生じない。それが自分のためにならないのは、言うまでもない。

なんの影響ももたらさない「毒にも薬にもならない相手」は無害なように見えるし、一緒にいても苦ではない。しかしだからこそ、ひそかに時間を食い尽くされるので実は非常に有害である。

明らかに迷惑な相手や合わない相手から離れることは容易いが、じわりじわりと時間と機会を奪うだけの存在の害には気づきにくい。

時間とは命そのものであり、本来一秒たりとも無駄にできない。

それは、自分と一緒にいてくれる相手にとっても同じことだ。だから自分自身も、相手にとってよい影響を与え続けられる存在でありたいと思う。

明日の自分の一部となるべきは、誰か。

今後の人生をどのように作りたいのか。自分はどのような人間でありたいのか。そのすぐそばには、どのような人がいて欲しいのか。

まずは自分自身の理想の在り方にとことん向き合わないことには、「今」一緒にいるべき相手を正しく選べないのかもしれない。

思っていた以上に自分がアップデートされていたり、人間関係の賞味期限がとっくに切れていたりすることは、いくらでもある。

その上で今のわたしは、感化される人と一緒にいたい。この人の言うことなら聞ける、そういう人がわたしには必要だ。

新しい色の絵の具を授けてもらえることも、踏み出す勇気をもらえることも。いつも上手くいくとは限らない人生を前に進めるためには、必要なことだから。

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