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母の日は懺悔の日。

今日は母の日。この10年余り私にとってこの日は、亡き母に「ありがとう」を伝える日でもあり、自らを悔い改める日でもある。2012年の暮れに書いたエッセイをもう一度読み直す。

MIYOSUI的こころ「#14 Mother」
CRECELAVOZ通信(2013年1月20日掲載)

暑い夏の日、母が交通事故に遭った。それから4ヶ月が過ぎ、もう冬を迎えるというのに母はずっと眠ったままだ。

最初の10日間くらいは生死の境を彷徨った。大切な人が今日死んでしまうかもしれないという恐れや不安。昇る朝日を見るたび「また今日を迎えられた」と安堵し、感謝する。病院から一歩外に出れば、通勤を急ぐ人や車の列。街は何事もないかのように忙しく一日を始めている。自分の時間は止まっているかのようなのに、それでも地球は回るんだと無常を感じつつも、今までどこかの誰かにとっては私自身も無情に回る地球の一部であったのだろうと省みる。世の中の人はみんな、いろんな事情や思いを持って生きているんだということに改めて気づく。

母は娘の私が言うのもなんだが、優しくて賢い人だ。いつも家族の健康を気遣い、自分のことより家族のことばかり心配している。決してでしゃばらず、控えめでいつも父を立てていた。ほそぼそと商売をしながら大した贅沢もせず、苦労しながら五人娘を必死に育ててくれた母の姿を思い出すとき、「ヨイトマケの唄」が頭に流れる。欲張らず、真面目に一生懸命に生きてきた母が、なぜこんな目に遭わなければならなかったのかという思いは今も消えない。

母とは同居していたのだが、私は照れくさくて、普段から多くを語ったりベタベタと触れ合うことをしなかった。今になって母の細くなった白い手足を一生懸命にさするとき、穏やかに眠るその顔にクリームを塗るとき「なんでこの何分の一でも、元気なうちにしてあげられなかったのだろう」と思う。母は何も語らないが、時折微笑んでいるかのような表情を見せる。「生きている」その存在が、尊く愛おしい。母の手を握り、その温もりを自らの体に充電しながら、思い出の中の母の温かさとともに心に記憶する。

母が生死を彷徨っている間、「欲は言わないからとにかく生きていて欲しい」と心から願った。毎日ウォーキングを欠かさず、今年も富士山に登ると張り切っていた元気な母だったから、私と母にはもっともっと時間があると思っていた。時間が永遠にあるかのように錯覚して、今できることを先延ばしにしていた至らない自分を悔いる。それでも死の淵から生還し、母は私たち家族に時間をくれた。失った時間を悔いるより、与えられた時間を悔いなく過ごすほかない。

これを読んでいるあなたも、当たり前にそばにいる大切な人に伝えたいけど伝えられていない思いがあるなら、恥ずかしがらずに今日伝えてみたらどうだろう。時間も縁も永遠じゃない。おそらく、多分。

事故の日を境に、それまで当たり前にあった「安心」が失われた。人は元気に生きているだけで、誰かの役に立っているんだなってつくづく思う。うまくいかないことや、自分の人生がクソのように思えて落ち込んだりすることもあるけど、それでも人は「ただ生きているだけ」で誰かの安心につながっている。だからどんなことがあっても生きなきゃならない。「命は大事」と、これまで何度も口にしてきたけど、今になって初めてその意味を実感している気がする。

何度か僕も グレかけたけど
やくざな道は ふまずにすんだ
どんなきれいな 唄よりも
どんなきれいな 声よりも
僕をはげまし 慰めた
母ちゃんの唄こそ 世界一
母ちゃんの唄こそ 世界一
(「ヨイトマケの唄」より)

今年の紅白でこれが流れたら、きっと泣いちゃうなぁ。とにかくありのままを受け止めて、ゆっくり一歩一歩前に進んでいきますわ。


これを書いた翌2月、母と父との金婚式を家族みんなで祝って間もなく、母は永眠した。事故に遭う前から「金婚式には家族で旅行しよう」などとその日が来るのを夫婦で楽しみにしていたから、気遣いの母らしくこの日まではがんばろうと思ったんじゃないかと思う。最期は、ようやく自分で開けられるようになったまぶたを開けて、家族の顔をじーっと見ていた。話すことがかなわない母なりの別れの言葉を受け取ろうとみんなで母の目を見て声をかけた。

もし事故後の痛々しい姿のまま逝っていたら、私たちはもっと苦しんだに違いない。死化粧をしたおだやかできれいな母の顔を撫でながら、与えてもらった時間に感謝した。

今でも忘れられない匂いが二つある。事故後ずっと自宅から離れた病院に詰めていて、母の容体が落ち着いた数日ぶりに一旦自宅に戻ったときのこと。敷いたままの母の布団がさっきまで母が寝ていたかのようで、思わずその布団に顔を伏せ嗅いだ母の匂い。ずっと忘れないでおこうと記憶した匂い。もう一つは、台所に行って炊飯鍋を開けた瞬間の、ごはんが傷んだ酸っぱい匂い。おそらくもう炊くことはないだろう母が炊いた最後のごはんをビニール袋に詰め、手を合わせて「ごめん」と呟いた途端、それまで我慢していた涙がポロポロとこぼれた。忘れたくても忘れらない悔いの匂い。

私は母にとっていい娘ではなかったと思う。今も好き勝手に生きていて、母が期待するような生き方はできていないかも知れない。それでも母への感謝や悔いは、自分が自分らしく生きることでしか返せない。「メメント・モリ」という言葉があるが、私は母の事故以来ずっと死を意識して生きている。それまであった当たり前の「生」は「今日死ぬかも知れない」という覚悟に変わった。母にまつわる二つの匂いを思い出しながら、せめて悔いを残さないように一番身近な人に今日も「ありがとう」を伝える。

子どものころは「母ちゃん」と呼んでいた。あの頃はそれが恥ずかしくて、人前では「お母さん」などとカッコつけて呼んだりしてたけど、今はなんて温かい呼び方だろうと思う。「母ちゃん、元気なうちにやさしくしてあげられんでごめんよ。私は今日もしあわせに生きています。ほんまにありがとうやで」

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