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「怪物」は、自分の顔を知らない。

「映画は一人で楽しめればよい」と普段の私は思っている。でも、本作品については「観て終わり」ではなく、人と言葉を交わすことがとても大事な気がした。だからこの映画を観てから考えたことを率直に書く。全てを受け取れたとは到底思えないし、自分の感じ方や価値観が正しいとか中庸であるとも思っていない。それでも、文字にすることで自分の姿を映してみる。本編の内容も含まれるので、この記事はぜひ、映画を観てから読んでほしい。

なお、文章の中には障害や疾病に関する記述がある。マイノリティーへの理解のために、あえてそのようなキャラクターとして描かれていると理解したこと、登場人物は、全て架空の人物であるという前提での記述であることをご理解いただきたい。本来、生身の人間に対して、医師以外の者が「この人は◯◯障害だ」などと、判断したり病名を付けたりすることは、御法度であることを申し添える。

「怪物」は、善意の表情をしている。

この映画では、同じ時間軸を3つの側面から観ることにより「人にはそれぞれの真実があり、物事の全体像は一方向からでは見えない」ということを擬似体験する。そして、その体験の先にあるのは自分自身への「ばつの悪さ」だ。

校長室で湊の母・早織に同調した私。
ただ一つの噂話を信じた私。
一端だけを見てその人を評価しようとした私……

知らず知らずのうちに認知バイアスがかかり、無自覚に人を追い込む側に立っていることに気づいたときの罪悪感。

私が生きてきたこれまでのあれこれが、第1部の校長室で終わっているんじゃないか。誰かのためという正義の顔をして、実は誰かにとっての罪になっていたことに、気づいてすらいないんじゃないか。いや、きっとたくさんあったに違いない。そんなことを想像してゾッとする。

自覚している罪じゃなく、無自覚な罪。
「怪物」は優しい顔をしているが、自分が誰だか知らない。

終始描かれるビル火災にかかわる伏線は、作り手が意図した「引っかけ問題」のような気がしている。火をつけた犯人を匂わすような描写はたくさんあったが、今思えばそれも「〇〇だからおそらくやったのだろう」という思い込みに過ぎない。決定的な証拠は一つも描かれていない。

音楽室で「嘘をついてしまった」という湊に「私と一緒だ」と言った校長先生。
それも、果たしてそのことを指していたのか——

「どうです?『思い込みはダメだ』なんて一瞬思ったくせに、やっぱり思い込んでるんじゃないですか?」と、試されているような気がしてならない。


「怪物」は、傷ついている。

私たちはとかく、人の噂話が好きで、人の失敗に厳しい。他人の生き方にさえ平気で口を出す、おせっかいな生き物だ。そもそも、赤の他人が人をジャッジする必要があるのか。

そんな「なりきり審判員」も、一方では、自らも何かしらの生きづらさと闘い、ときに傷み、ときに過ちをおかす。

この映画の登場人物は皆、何かしらの生きづらさを抱えている。ひとり親家庭、性的マイノリティ、発達障害、家庭内暴力、いじめ、取り返しのつかない失敗、アルコール依存症……

スクリーンでは、どこででも耳にするような日常の会話が繰り広げられている。しかし、その中には多くの人が持つ当たり前と思われている価値観や、イラショナル・ビリーフ(根拠のない真実やこうあるべきという思い込みなど)が散りばめられている。それらの一つひとつが、誰かにとっては何の引っかかりもなく、誰かにとってはチクチクする違和感として映るだろう。

「それでも男か」「男らしく」
「お父さんみたいに」
「普通に結婚して子どもを作って」

思春期になり、性自認が人とは違うということに気づき始めた湊には、当たり前のように放たれるこうした言葉の一つ一つが重荷になっていく。
それは「女の子みたい」といじられている依里にとっても同じだ。

依里は「読み書き障害」がある子どもとして描かれている。学校で当たり前に行われる人前での音読。みんなと同じように流暢に読めないことへの周囲の洞察もなく、毎度笑ってごまかさなければならない依里の心情はいかばかりか。学校を休んでいる湊を励まそうと書く手紙も、湊の母・早織に鏡文字を指摘され、正しく書けない依里の気持ちは萎えていく。彼がもつ「優しさ」は「かくあるべき」思考を前に、相手に届くことなく消える。長袖の服や、笑顔の下に隠された痛みは計り知れない。

担任の保利先生は、奇妙な先生という印象でスクリーンに現れる。表情を上手く作れず、場の空気を読むことが苦手で、一見ふざけているようにも見える。人が見つけられない誤植を見つけるという特異な興味やこだわりからも、ASD(自閉症スペクトラム症)傾向がある人物として描かれている。特性が一般に理解されにくく、現実社会でも生きづらさを抱えている人が多い障害だ。そんな彼は学校の保身の前に、都合よく取り繕うことを演じさせられ、窮地に追い込まれる。

不慮の事故で夫を亡くした湊の母・早織は、仕事同様、社会の小さなシワもきっちり伸ばしたくなる性分だ。そんな彼女にも伸ばせない心のざらつき。咀嚼できない思いを解消するべく、相争う相手もいない。それでも子どもの前では気丈に振るまっている。過度な思い込みの根っこにあるのは、子どもを守りたいという母性だ。

孫を亡くした校長先生には全く生気がない。事故を起こしたのが、夫なのか本人なのかは定かではないが、留置場での二人のちぐはぐな会話の様子から、夫は認知症を患っているのかもしれない。孫を死なせてしまうという取り返しのつかない出来事は、察するに有り余る。片時も離れることのない自責の念。「なかったことにならないか」そんな思いでヘラで床をこそげながら、可愛かった孫の姿や、目を覆いたくなる事故の情景が頭を巡っているのかもしれない。元気な子どもの姿を見るのも辛いが、仕事をしているときだけが少しでも忘れられる時間なのだろう。

怪物とは本来「正体のわからない、不気味な生き物」を指す。悪気のない偏見、無自覚な群集、無意識に放たれる言葉の刃……核の見えない不気味な何かによって、傷ついている人がいる。そして、傷ついた人たちの「怪物」がさらに目を覚まし、自らの痛みをかばうように悪さをする。

この世は、誰もが不完全で、お互いさまの世の中だ。人はそれが分かっていても、自らが窮地に立たされたとき、自分の弱さを前に、他人を蔑(さげす)むことで自らの心の安定をはかるような人間の性(さが)がひょっこり姿を現す。

人の中に眠る「怪物」が、傷みによって目を覚まさないように、「触れない」という選択肢もあるのではないか。相手を理解するとかそんなハードルの高いことじゃなく、無関心とも違う、「触れない」という優しさ。


「怪物」は、姿はなくとも支配する。

トンネルを抜けた、光差す緑のたもとに横たわる廃電車は二人の秘密基地だ。現代の子どもたちの多くは、秘密基地(子どもたちだけの世界)を持つことができない。廃電車は全ての子どもたちにとっての理想郷だ。依里に案内され、湊が初めてそこへ向かうシーンが印象的だ。

とっておきの場所に初めて客人を招待する依里は、嬉しそうに先導しながら自分の大好きな花の名前を紹介するが、そんな二人だけの世界をも大人の価値観が邪魔をする。

「お母さんが『男の子は花の名前知らない方がモテる』って」
「『花の名前知ってる男は気持ち悪い』って?」

「気持ち悪い」は、依里がこれまでも言われてきた言葉なのかも知れない。依里の「好き」や「得意」は、素通りされていく。そこに姿はないのに、子どもの世界を支配する大人への皮肉を込めてか、暗いトンネルに入ることをためらっている湊に向かって「暗がりを怖がる男はモテない」と依里が茶化す。

そう言われて暗闇に足を踏み入れる湊。子どもたちの心の不協和音のように、依里が回す蟲笛がヒュンヒュンと鳴り響いている。

身近な大人の価値観から離れて「これが自分だ」と前を向けるほど、二人は成熟していない。自分に起きていることの正体もまだよく理解できていないのだから。

廃電車の窓は、子どもの世界と大人の世界の境界として描かれている。目まぐるしい時代の変化の中で、大人と子どもが互いの世界をうかがい知ることは本当に難しくなっている。大人たちが生きてきた子ども時代とは、全く違う時代を生きている子どもたち。そのギャップが大人を臆病にするが、だからと言って全てを知る必要はない。全てを知ろうとすることは、相手を信じないことと同義だ。


「怪物」は、化け物とは違う。

この作品は、とても誠実にそれぞれのキャラクターを描いていると思う。登場人物の誰もがきれい過ぎず、どの属性にも肩入れしていないフラットな感じ。複雑な人間模様が偏りなく描かれているところに、作られていないリアルさと、観る者に委ねる懐の深さを感じる。人の弱みだけでなく、その人が持つ良さや温かみ、表からは見えにくい背骨までが描かれており、そのことが、一人ひとりがありのまま、そこに生きるべき存在であることを表していると思う。

父親から「豚の脳」「化け物」と貶(けな)される依里の本当の姿は、生きづらさを周囲に理解されない孤独で健気な子どもだ。読み書きが苦手でも、好きな花の名前をたくさん知っている。物知りで友だち思いな愛くるしい子どもだ。多くの傷みが、ある意味彼を大人にし、本来の子どもらしさを表出できないでいる。自分の価値観にハマらない彼の人間性を「異常」と捉える親に、「普通になった」と言わされる彼は、ずっと前から普通の子どもだ。

保利先生が、湊と依里の関係性に気づいたときの瞬発力。大雨の中、なりふり構わず全力で湊に詫びにいく姿には涙が出た。コミュニケーションが苦手でも、心がないわけじゃない。自分の過ちに気づいたとき、子どもに対して心から詫びることのできる誠実な大人だ。子どもに暴力を振う教師失格の保利先生は、人の痛みが分かる子どもの味方だった。

音楽室で湊がトロンボーンを吹くシーンも胸を打つ。思春期の複雑な心の内を言語化することはとても難しい。時に、その言葉にならない想いが、本来あるべき姿を失わせてしまいそうになるが、それは解消する手段を持っていないからだ。校長は心を解放する一つの手段として、湊にトロンボーンを吹くことを教える。放課後の校内に二人が放ったメロディーのない魂の叫びは、一本の蜘蛛の糸となって保利先生を救ったのかもしれない。

ときに「怪物」の姿を現した人たちも、必要としてくれる人の前では、その人本来の穏やかな姿でいられることが描かれている。人は人であって「化け物」とは違う。もし「化け物」と呼ばれている人がいたとしたら、それは人に巣食う「怪物」たちが、その人の本来あるべき姿を失わせているだけだ。


「怪物」は、スクリーンの外にいる。そして、死なない。

「怪物」がいなくなれば…と誰もが思う。だが、「怪物」は死なない。それは、人とともに生きる人間の性(さが)だからだ。それでも、その「怪物」をできるだけ目覚めさせないように、不必要な痛みや怒りは取り除きたい。

人は、自分とは違う、日常とは違う、想像とは違う、そんな未知なるものに恐れを抱く。それは当たり前の感情だが、その未知の世界への「恐れ」や「無理解」が、人を傷つけてしまうこともある。意図しない傷つけ合いを少しでも減らすために、私たちは世の中を知ろうとし、自分とは違う立場の人たちの存在に気づこうとする。

しかし、世界は果てしなく広い。どれだけ知っても、所詮知っていることなんてほんの僅かで、私たちはほとんどを知らない。知り尽くせない。だからせめて「自分は知らない」という慎ましさを携えておきたい。一つの事実の、その奥に何かがあるのかも知れないと想像して、全体像を見ようとすること。自らの弱さを自覚し、人の弱さや過ちにもう少し大らかであること。

「怪物だーれだ」
自分には見えない自分の姿を、相手を介して当て合うという湊と依里の遊びは、「怪物」を目覚めさせないための一つの方法であることを示唆している。人は意外に自分のことを知らない。自分の救いも、自分の罪も、自分が立っている場所も、自分がどんな顔をしているかも。人は人を介して自分が何者かを知る。だからこそ対話が必要だ。

坂本龍一さんの「Aqua」が、全ての痛みを洗い流す、切なくも美しいラストシーン。そこにあるのは、枠にはめられることなく、心身ともに解放された無邪気な子どもの姿だ。このあるべき姿を眩しく感じるのは、それが失われつつある情景だからかもしれない。

二人は死んだのか?それとも幻想なのか?
それはきっとどちらでもない、と受け止めている。

生まれ変わったらこんな風になりたい……と的当てをしながら、互いにささやかな夢を言い合うシーンがあった。しかしどうだろう?今を生きている子どもたちが、生まれ変わった先にしか希望を見出せない世界なんて。

最後に二人が交わす台詞は
「誰もがありのまま生きていい」
「今」「この世界で」という意味だと思う。

私たちは「あるべき姿」を見せられた。
「死んだのか?」という疑問を
「死んだとしたらどうですか?」に置きかえてみる。

素晴らしい俳優たちが演じたのは、スクリーンの外にいる現実社会に生きる人だ。
性的マイノリティに属する人は、日本で約8.9%(電通ダイバーシティ・ラボ2020)とも。そのうちの8割がそれを表に出せないでいる。「知的発達に遅れはないものの、学習面または行動面で著しい困難を示す児童生徒」は小・中の通常学級に8.8%(令和4年度文科省)。不登校の数は、前年度から25%増の24万4940人(令和3年度文科省)。母子家庭は119.5万世帯、父子家庭は14.9万世帯(令和3年厚労省)。アルコール依存症、セクハラ、パワハラ、モラハラ、からかい、いじめ、家庭内暴力、認知症、うつ病、被害者家族、加害者家族、根拠のない噂、偏った価値観、世の怪物たちを煽るマスコミ……

日本の昨年の自殺者数は21,881人(令和4年警察庁)。
そのうち、子どもの自殺者は過去最多の514人。
子どもが減っているにもかかわらず、だ。

今も、偏見や無理解によって苦しんでいる人たちや、誰かの助けを必要としている人たちがいる。手遅れになる前に、今、私たちにできることは何なのか。

ラストシーンは、スクリーンの外にいる、全ての「怪物」たちに向かって押された「時限装置」だと思う。

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