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「ヘルメット」被るか被らないかは、己の人生の選択の一つにほかならない。

「あなたヘルメットかぶってます?それともかぶってない?」
「・・・・・・」
「いやいや答えはどちらだっていいんですよ。ただしその理由は重要ですけどね」
「・・・・・?」

自転車乗用時のヘルメット着用が努力義務化 なぜ?

道路交通法の改正により、4月1日から自転車を運転する際のヘルメット着用が努力義務化され、毎日のように着用率や市民のさまざまな反応が報道されている。

まずは、ヘルメット着用が努力義務化された背景について整理しよう。近年、日本全国の交通事故死者数は減少している。下記のグラフは令和3年までのデータとなっているが、令和4年は2,610人で6年連続最少を更新している(図1)。

図1(出典:国土交通省HP)

そんな中、「自動車乗用中」や「自動二輪車乗車中」の交通事故死者数に比べて、「歩行中」や「自転車乗用中」の減少率は鈍く(図2)、今や交通事故死者数は「歩行中」「自転車乗用中」が半数を占める(図3左)。そして、それは特別な場所ではなく、半数が日常の生活圏内で起きている(図3右)。

図2(出典:内閣府HP)
図3(出典:国土交通省HP)

自転車乗用中にヘルメットをかぶっていなかった場合の交通事故死のうち56%は頭部損傷によるもので、かぶっていない人の致死率はかぶっていた人の約3倍になるという(図4左)。なのに、自転車に乗るとき、人々はほぼほぼヘルメットをかぶっていない(図4右)。これまでも13歳未満の子どもはヘルメット着用の対象だったので、小学生・中学生の被着用率は他に比べて低いが、実際には通学以外ではかぶっていないというケースも多いのではないだろうか。

図4(出典:内閣府HP)

①自転車乗用中の交通事故死亡者が依然多い
②ヘルメットをかぶっていなかった自転車乗用中死亡者の58%は頭部損傷
③ヘルメットをかぶっていない人の致死率はかぶっている人の約3倍
④現状、ほとんどの人がヘルメットをかぶっていない

これらのデータを見ると「自転車に乗るときはヘルメットをかぶりましょう」は当然の流れのように思う。

「かぶる」=「死ぬリスクを少しでも減らすという選択」

人は生きていく上で多くの選択を繰り返している。人生を大きく左右するような重要な選択から、大したことないしょうもない選択まで。私は目の前の選択肢の中から「どれを選ぶか」という「結論」より、「なぜそれを選ぶか」や「誰が選ぶか」という「過程」の方が、自分の人生を納得いくものにするという点において重要であると感じている。いい判断をするためには、それなりの知識や経験が必要だし、後々後悔しないためには最終的に「自分の意志で選ぶ」という主体性が必要だ。自分の人生の責任は自分にしか取れないし、選択の責任を人に押し付けたところで前向きな感情は生まれない。「自分で選んだ道だという自覚」が人生を歩んでいく自らのエネルギーになる。

「自転車に乗るときヘルメットをかぶるかかぶらないか」それも人生の多くの選択のうちの1つにほかならない。ケーキ屋に行って「いちごショートといちごロールどっちにしよー?迷う〜」みたいな場合は「どっち食っても胃に入ったら同じじゃい」てな感じでどちらを選択しようが大差ないけど「起きるかどうか分からない事故に備えて、死ぬリスクを少しでも減らす備えをするかどうか」——自分の命にかかわるその選択はせめて自分の責任でした方がいいと思う。

「かぶる理由」「かぶらない理由」にその人の主体性が見える

まだまだ着用率は低いようだが、かぶる人にも、かぶらない人にもそれなりの理由があるようだ。その理由を聞いていると、その人が主体的に生きているかどうか(自分の人生の手綱を自分で握っているかどうか)が垣間見える。たかがヘルメット。されどヘルメット。

颯爽とスポーティーなヘルメットをかぶって通勤する男性。「自転車も危険だから2年前からずっとかぶってます。周りはあんまりかぶってないですけどね」——ルール化されなくても、自らの判断で危険回避のために周囲に流されず行動している彼は主体性がある人だ。

逆に「私はね、髪型に命かけてるんですよ。命を落としてでも、ヘアースタイルを守りたいからかぶりません」そういう人もいるかも知れない。自分の中で大切にしたい価値観に優先順位をつけて行動選択をしているという点で主体的だ。この人はもしかしたらヘアースタイルを守ったまま死ぬかも知れないが、少なくとも本人は承知の上だ。

そうした自ら判断して行動する人とは別に、同調圧力に弱い日本人の中には「ルールになった以上、かぶっていないと周囲から何と思われるか分からないからかぶる」とか「みんながかぶっていないのにかぶるのは恥ずかしいからかぶらない」みたいな人も多い。そういう人の判断基準は自分の外にある。人目を気にした結果安全が守られるなら、それはそれでいいのかも知れないが「かぶった方がいいと思っているけど、周りがかぶってないからかぶらない」という人は事故にあったとしても周りの誰も責任は取ってくれないから自分の考えに従った方がいい。

テレビのコメンテーターがこんなことを言っていた。「ロードバイクとかなら必要かも知れないけど、ママチャリには必要ないんじゃない?ちょっとそこまで行くのにヘルメットは面倒くさいし」この手のコメントを言う人は「自分には事故は起きない」と思っている。「自分も事故に遭うかもしれない」というまさかの想像はせず、「自分の身には起きないだろう」と油断している側だ。自転車事故は自分ごとではなく、他人事という点で主体性に乏しい。

個人的な話になるが、私の母は自転車運転中の事故が原因で他界した。いつもの生活圏内で、いつも乗っていたママチャリで、車がスピードを出すような場所ではない道で、一旦停止をせず突っ込んできた車にはねられた。もしヘルメットをしていたなら今も生きていられたかもしれない。頭部損傷が致命傷だった。ママチャリだろうが、ちょっとそこまでだろうが、大通りでなかろうが危険は身近にあるということは身に染みて理解している。1秒2秒違っていたら無事だったかも知れない。よく事故に遭った人に「たまたま」という言葉が使われるが、無事生きていることもまた「たまたま」なのかも知れない。

「努力義務と言っても罰則はないんだし」という人もいる。確かにかぶっていなくても罰則はない。でも、もし事故に遭ったときは「かぶっていなかった」という責任がこれからは問われることになるってことは覚悟しておかないといけない。

日本は何といっても超高齢社会なんである。自転車を運転する立場だけでなく、自動車を運転する立場で考えてみても、自転車乗用中の人がヘルメットをかぶっておくことがリスク回避になるのは間違いない。より良い判断をする上では、少し広い視野で想像することも大事だろう。

死亡事故防止のために個人ができることとできないこと

「補助金を出してくれるなら買うけど…」そういう人もいる。
確かに家族が多い場合などは準備するのも大変だろうと思う。すでにヘルメット購入に際して補助金を出している自治体もある。でも家族の大事な命だ。それを守りたいならもし助成がなかったとしても自ら備えることも大事だ。「守ってくれよ」と待っているばかりでは、とどのつまり自分や家族の身は守れない。

日本は欧米諸国に比べて「歩行中」と「自転車乗用中」の事故の割合が格段に高い(図5)。その理由は何なのか。高齢化がますます進んでいることや、高度成長期に「歩行者より車を優先した道路づくりがされてきた」という日本の道路事情や歩行者軽視の歴史もあるだろう。

死亡事故を防ぐために個人レベルでできることが、ヘルメットの着用や安全運転。でも、歩行者や自転車乗用者に安全な環境整備をすることは個人には難しい。すでにさまざまな対策がなされているとは思うが、国や自治体、関係団体には個人ができない部分を何とかしてもらいたいと思う。

図5(出典:内閣府HP)

トラックにはねられた女子高生が放った絶妙な呼びかけとは?

ローカルニュースで「自転車で通学中にトラックにはねられたが、ヘルメットをかぶっていたため命を落とさずに済んだ」という女子高生の取材VTRが流れた。数メートル飛ばされ、体ごとアスファルトに打ちつけられたという経験を振り返り「ヘルメットをかぶっていてよかった」と彼女は話す。そんな大変な経験をしたのだから最終的に「絶対にヘルメットはかぶったほうがいい」と呼びかけるのかと思ったら、その子の最後の一言が絶妙だった。

「これからやりたいことがある」「まだ死にたくない」っていう人は、かぶったほうがいいと思います。
聞き手に選択を委ねた高度なメッセージにうなってしまった。

「あなたはヘルメットかぶりますか?それともかぶりませんか?」「それはなぜ?」
原付バイクのヘルメットや車のシートベルトのように自転車ヘルメットもいつかは義務化され、それが当たり前になる日が来るような気もするが、強制されていない今の時点では人生の多くの選択肢の中の一つと同じく、その判断は個人に委ねられている。

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