文字を持たなかった明治―吉太郎25 妻死亡ニ因リ……(続)

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」と題し、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある

 このところは「大家族」をテーマに、手元の除籍謄本のうち二番目に古いもの(便宜上【戸籍二】とする)を参考にして、6人きょうだいだった吉太郎に家族が増えていく様子を追い(大家族①)、続いて次に古い謄本(【戸籍三】とする)について書き始めた。

 四男・源太郎の妻チヨはすでに亡くなり、【戸籍二】に死亡届出までが記載されているのだが、【戸籍三】の源太郎の欄にわざわざ(?)「妻チヨ死亡ニ因リ婚姻解消」の一文がある。なぜ「婚姻解消」なのか、孫娘世代の二三四(わたし)としてはもやもやする、ということを前項で述べた。

 あまりにもやもやするので、その後「旧民法、妻死亡、婚姻解消」というキーワードを打ち込み、インターネットで検索してみた。参考になったのは以下のQ&Aだ(若干編集した)。

タイトル:「戦前も死後離婚ってあった?!」

Q: 曾祖母の除籍謄本によれば、「昭和13年〇月〇日 夫〇〇死亡に因り婚姻解消」との文言が出てきた。これは今でいう「死後離婚」(正確には姻族関係終了の届出)に相当するのだろうか?
 曾祖父の死後は長男が家督相続をしたとあるが、曾祖母はそのまま長男一家と同居し、姓も変わらなかったようだ。夫の親族と折り合いが悪く、夫の死後は関わりたくなかったため婚姻解消したと考えられるだろうか? 戦前にそのようなことが許されたのか?

A(ベストアンサー):家督相続を含む戦前の戸籍制度では、家制度継承という考えのうえに婚姻があった。戸主が亡くなるとその配偶者は、戸主との関係が消滅するので「離縁」という形を取った。相続人は、前戸主死亡、隠居等の場合、死亡した前戸主の直系卑属の中から選ばれた。
 現在の「死後離婚」と結果的には同じようなものだが、戸主が死亡するとその配偶者は自動的に離縁扱いになった、という点は違う。戦前の婚姻解消は、夫の死後親族との関わり云々ではなく、明治民法の制度としてそうなっていた。

 これは源太郎・チヨのケースと男女が逆なので、このまま応用するわけにいかない。そもそもこのアンサーが、どの程度の専門的知識で書かれたものかがわからない(もちろん信用してはいるが、根拠が見えない)。

 ただ、アンサーの「家督相続を含む戦前の戸籍制度では、家制度継承という考えのうえに婚姻があった」という点は非常に重要だと思う。戸籍の中心は家であり(だから「戸」だ)、その中核を担うのが戸主であり、その他の成員は「家」にとってどういう位置づけなのか、が重要だったのだろう。その関係性は除籍謄本の「続柄」にはっきり表れている。家督の相続、つまり誰が戸主になるかもまた、非常に重要な要素だったはずだ。

 このアンサーから解釈すると、源太郎は戸主ではなかったものの、チヨも死亡により婚姻が「自動的に解消」されたということ、なのだろう。手続き上戸籍に記載しただけ、かもしれない。しかし、もし源太郎のほうが死亡していたら(つまり上述のQのケースと男女が同じ場合)、「婚姻解消」されたチヨはどうなっていたのだろう? 子供たちの母親なのでそのまま同じ家にいるとしても、ほかの家族とは「姻族関係」にはないことになる。

 なんだかやっぱりもやもやするのだが、これ以上「解明」しようとすると明治民法をつぶさに調べなければならない。とりあえず、「当時はそういう制度だった」というところでやめておこう。 

《参考》
戦前も死後離婚ってあった?! 教えて!goo


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