文字を持たなかった昭和 続々・帰省余話2 進む認知機能の低下

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を軸に庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 前項からは先日帰省した際のミヨ子さんの様子を書きつつあり、今回印象が強かったことのひとつめとして「思ったより元気」だったと述べた。ふたつめとして、さはさりながら認知機能の低下が進んでいることを挙げたが、本項ではそれについて詳しく述べたい。

 ミヨ子さんが息子(兄)家族と同居するようになって早や10年ほど経つ。その間の変化を――逐一身近で見ていたわけでないにせよ、帰省や電話などで折に触れ――観察し、専門書や関連のウェブサイトなどを参照しつつ、素人なりに解釈、分析してきたわたしの感想は「ミヨ子さんは認知機能低下のプロセスを順当に踏んでいる」というものだ。そしてそれはある時期、そう3年ほど前を境に加速している。

 認知機能低下の表象(と言っていいだろう)として今回強く感じたのは、
・興味の対象が限られる(比較的簡単に認識できるもののみ)
・対象への認識をより深く理解(しようと)する試みへとつながらない
・眼前の認識は単独で消滅し、前後の認識との連携ができない、あるいは困難(記憶が続かない)
・眼前の認識と近い記憶との連携が困難。その一方で、まったく無関係の過去の記憶と連携することは多々ある。
・感情がストレートに出る(幸いミヨ子さんは穏やかな性格で、大声を出したり暴れたりはしないが)
などなど。

 総じて言えば、およそすべての認識は一瞬で、それはきっと本人もうまく捕まえられないのだろう。記憶も一瞬浮かんではどこかへ行ってしまう感じだ(しかし古い記憶や体験ほど強く現れてくる)。以前ミヨ子さんとのビデオ通話の際同居するお嫁さん(義姉)が語ったように、「頭の中はまっ白(靄がかかっている状態)」なのだ〈241〉。

 逆に言えば、いまミヨ子さんが認識しているコト・モノ・ヒト・場所などをうまく掬い上げられれば、会話はある程度成立する。頭の中にも多少は入っていける(ような気がする)。

 わたしは少し前に『認知症世界の歩き方 実践編 対話とデザインがあなたの生活を変える』(筧裕介・ issue+design著、英治出版)を読み、認知症の方の世界に合わせてこちらのほうが役者になる、演技するという対応があることを知った。今回はそれを少し試みた。ミヨ子さんの世界をいっしょに楽しめたかどうかはわからないが、少なくともミヨ子さんが抵抗や反論をすることはなかった、と思う。

 じつはそれは、実の娘にとって辛い試みでもある。目の前の母親との共通の思い出、本来共有できていた感覚や認識を、ある意味捨てることでもあるのだから。

 しかし一方で、古い記憶、例えばミヨ子さんが若い母親だった頃の家や集落、親戚やご近所さんといった話題は、すんなり共有できることが多かった。わたしが意識して「地のことば」、場合によっては昔おばあさんたちが話していたことばを使うようにしたことも、功を奏したかもしれない。

 つまるところ、どんなに「ボケ」てしまっ(たように見え)ても、ミヨ子さんはミヨ子さんなのだ。そして娘としてとても幸いなことに、まだわが子をわが子だと認識してもらえている。

 もしそれができなくなっても、ミヨ子さんが自分の母親であることに変わりはないのだと、改めて強く思った数日間でもあった。もちろんそんな日の到来は、一日でも遅いことを願っているが。

〈241〉これについては「最近のミヨ子さん(白い靄の中)」で述べた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?