現在のパレスチナ問題にも知恵や解を与えるカタルーニャ地方の「共存の歴史」と「鳥の歌」
スペイン北東部の言語であるカタルーニャ語は、1936年に成立したフランコ独裁政権の下では使用が禁止されていた。世界的なチェリストであったパブロ・カザルス(1876~1973年)もフランコの弾圧政治を嫌って1939年にカタルーニャからフランスに逃れた。カタルーニャ語の使用が認められるようになったのは、1975年にフランコが没して、さらに1978年にカタルーニャ自治憲章でカタルーニャ語が公用語になってからのことだ。カザルスは、有名な1971年10月24日の国連総会での演奏会で「鳥の歌」を演奏したが、「カタルーニャでは鳥はpeace, peace, peaceと鳴きます」と聴衆に向かって語り、「この歌はバッハやベートーヴェンなど偉大な音楽家たちが愛し、耳を傾けたメロディーであり、カタルーニャの魂なのです。」と訴えた。
カタルーニャはキリスト教文化とイスラム文化が混じり合った共存の舞台でもあった。
オーリヤックのジェルベール(940頃~1003年)は、フランス中南部オーベルニュ地方オーリャックで生まれた。後にフランス人として初めて教皇(シルウェステル2世、在位999~1003年)になる人物で、カタルーニャ地方で、アラブの諸学を吸収し、それらを多くの弟子たちに伝えた。
963年にオーリャックのジェラール僧院に入ると、ラテン語の学習に熱心に取り組んだ。967年にバルセロナ伯のボレル2世が僧院を訪問すると、僧院長は、バルセロナ伯にジェルベールがスペインで数学の勉学ができるように計らってほしいと要請した。ボレル2世は、それに応じてジェルベールをヴィックの司教に託した。スペインのカタルーニャ地方はバルセロナとヴィックが位置するところだが、カタルーニャは南部のアンダルス(イスラム・スペイン)と不断の交流があった。
当時のアンダルスはヨーロッパとは学術研究に関しては大きな隔たりがあり、ヨーロッパの比較的大きな図書館には1000冊以下の蔵書しかなかったのに対して、コルドバのカリフがつくった図書館には40万冊以上もあったとも言われるほど豊富な蔵書を誇っていた。
ジェルベールは、西欧世界でアラビア数字を最も早く習得した人物の一人であり、当時のヨーロッパでは解けなかった数式に解を与え、驚嘆をもって周囲のヨーロッパの人々から見られるようになった。
ジェルベールは、アラビア語の学習によって獲得した数学や天文学などアラブの科学をフランス北部のランス大聖堂の学校などで教育者としてヨーロッパに伝達し、また神聖ローマ帝国のオットー3世(在位983~1002年)に政治的アドバイスを行うなど、10世紀後半のヨーロッパ科学の発展にとって特筆すべき人物となった。
イスラエルなどのナショナリズムに訴える政治指導者たちは、排除、排斥ではなく、「鳥の歌」に表される平和の精神や、カタルーニャで学んだジェルベールのように、異なる他者から共存や共生によって発展の知恵を学んだらどうか。
中米の永世中立国のコスタリカは人口500万人ぐらいの小国だが、1983年に永世非武装中立を宣言している。永世非武装中立を宣言したのは、軍隊が独裁政権生み出し、国民の自由を奪うと考えられたためである。
1940年代から70年代にかけて大統領の在任(32、34、38代)を繰り返し、合計10年間ほど大統領の地位にあったホセ=フィゲーレス(1906~1990年)は「兵士よりも多くの教師を」というスローガンを掲げ、軍事にかける資金を教育や福祉に回すことを主張した。2014年に隣国ニカラグアの侵略がコスタリカにあった時、右派政権が義勇軍の創設を訴えたこともあったが、国際司法裁判所に訴え、ニカラグアもその裁定を受け入れ、戦争は回避された。フィゲーレスの家庭はスペインのカタルーニャ地方出身で、国連で平和への願いを「鳥の歌」の演奏に込めたパブロ・カザルスと同じ出身地の背景をもっていた。
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