見出し画像

【連載企画】ひむか人の西南の役

 西南戦争から今年で130年(2007年当時)。戦争としてはピークを過ぎた後の舞台となった宮崎県だが、地域によっては多くの兵を出したり、戦いで土地が荒廃したり、その影響は決して小さくなかった。宮崎県内各地に残る伝承や戦跡をたどりながら、宮崎県がこの戦にどうかかわり、そのことがどのような結果をもたらしたのかを紹介する。

※このコンテンツは、宮崎県を舞台に繰り広げられた“最後の内乱”を振り返り、歴史に埋められた事実を紹介するものです。宮崎日日新聞社本紙文化面で2007年8月8日~2007年11月14日まで掲載されました。追加で2023年までに本紙掲載された本稿に関連する話を追加しています。登場するお店、登場される方の職業・年齢等は掲載当時のものです。ご了承ください。


1.敗走ルート

 五ケ瀬町の南西部にそびえる、九州で最も高い石灰岩峰・白岩山。頂上の岩場に立つと、眼下には向霧立山地の尾根。視線を上に向けると、はるかかなたまで続く山々の濃淡相混じる緑、幾重にも折り重なるなだらかな稜線りょうせん、そしてその上にうっすらと立ちこめる雲―。

白岩山から望む向霧立山地。秋本会長は「西郷
さんが通った時は雨だったので、ここまでの絶
景は見ることができなかったでしょうね」  

 「西郷さんは、この絶景を、どんな心境で眺めたんでしょうね」
 「霧立越の歴史と自然を考える会」の秋本治会長(64)が、西南戦争の“主人公”西郷隆盛がこの地を踏んだ130年前に思いをはせる。
 1877(明治10)年4月21日。西南戦争最大の激戦地となった田原坂(熊本県植木町)での戦いに敗れた西郷率いる薩軍は、同県矢部町で軍議を開き、「いったん人吉に退いて、軍を再編成する」という方針を打ち出した。西郷は翌22日、2千人の兵を伴って矢部を出発。人吉を目指して九州脊梁せきりょう山地に分け入った。そして、県内で最初にたどり着いたのがここ五ケ瀬町。本県を舞台に約四カ月にわたり繰り広げられた“敗軍の将の物語”の幕開けの地だ。

■「難行苦行」の山越え
 「西郷は仏か神か姿見せずに戦する」
 当時、こう歌われたように、五ケ瀬に入って以降の西郷自身の動静については、今も謎の部分が多い。手掛かりは、各地域に伝わる「げなげな話」と、薩軍兵士が書いた記録だけ。そのことが、かえって西郷ファンや郷土史家らの空想ロマンをかき立てている。
 敗走ルートからして、そうだ。これまで綿密な調査によって、椎葉往還を通る「胡摩山越ルート」と、間道の「霧立越ルート」の2つの説が導き出され、前者が有力視されてきた。

胡摩山越ルート(ごまやまごし)
五ケ瀬町本屋敷から胡桃峠、胡摩山、椎葉村の内の八重、桑弓野を経て小崎の庄屋跡に到達するルート。「五ケ瀬町史」「西南の役高千穂戦記」(西川功、甲斐畩常著)では、この説が取られている。

霧立越ルート(きりたちごえ)
五ケ瀬町本屋敷から西に進み、波帰、日肥峠を経て霧立越を南下し、尾八重、桑弓野に下り、小崎に入る。元宮崎市文化財審議会委員の井上重光著「倉岡郷と丁丑の乱」に記されている。

 だが同町で育ち、霧立越の登山コースを開拓した秋本会長は「逃げる側の総大将の心理として、往還道を堂々と通るとは考えにくい」といった理由から「霧立越ルート」を支持する。
 いずれにしても、西郷がこの山を越えた時には、数10㌢に及ぶ残雪が積もっていたのに加え、連日激しい風雨。まさに「難行苦行なんぎょうくぎょう」(薩軍兵士・佐々友房の回顧録)の行軍だった。一方で、この4月下旬という時期は、シャクナゲやキリタチヤマザクラなどのシーズンでもあり、これらの花々やホトトギスのさえずりが西郷軍に刹那せつなの癒やしと安らぎを与えたかもしれない。
 こうして一行は、熊本の男成おとこなり神社で調達した保存食「焼き米」を糧にして、椎葉へと下った。

地元に残る史料や口伝①
 はるか昔、平家の残党が落ち延び、それを追って来た那須大八郎と平家方の鶴富姫が美しくも悲しい恋物語を紡いだ椎葉村。この地には、決して大っぴらに語られることはない、薩軍にまつわるこんなエピソードが静かに伝えられている。
 「西郷が村に足を踏み入れる少し前。現地の状況を下調べするために入ってきた薩軍の先遣隊を、地の利を生かして村人が闇討ちし、洞窟どうくつに埋めた」。洞窟があった場所は「千人塚」の名を残すが、現在は、同村の上椎葉ダム湖の奥底に沈んでいる。
 秋本会長は「外からさまざまな人間が逃れてきた歴史を持つ隠れ里であるが故に、不審者には強い警戒心を持っていたのだろう。おそらく当時、村にはこの件について、かん口令が敷かれ、わずかな人間によってひそかに語り伝えられてきたのではないか」と推測する。こうしたことがあってか、椎葉には、この戦を今に伝えるものがほとんど残っていない。

地元に残る史料や口伝②
 一方、五ケ瀬町には、いくつかの史跡や文献が今もある。同町三ケ所の貝長恭子さん(77)宅には、恭子さんの四代前の先祖・拾太郎さんが書いた「鹿児嶋記實録」が残されていた。この記録誌には、西臼杵での当時の戦火の模様などが克明に記されている。
 西南戦争がぼっ発して間もない同年2月下旬から、飫肥藩、延岡藩など「薩軍の援軍」が相次いで村を通過したこと、そのたびに村中ごった返し、村民は男女問わず徹夜で炊き出しにあたったこと、薩軍が退却する時には道案内や物資の運搬にも従事したこと…。
 こうした詳細な記録は、拾太郎さんが毎日戦場を回ってつづったものだ。官軍に捕らわれそうになるなど、身を危険にさらしてまでも拾太郎さんに“取材”を敢行させたもの。それは「合戦の模様を後世に伝えたい」という、いちずな思いだったのだろう。
 有形、無形を問わず当時の様子をリアルに伝えるこれらの史料や口伝は、130年という時を経ても「最後の内戦」であり「士族反乱の総決算」でもあるこの戦争を色あせさせない。むしろ「風化させてはならない」というメッセージを静かに、しかし強烈に発しているかのようだ。


児玉愛平宅=西米良村

■官軍の追撃逃れ宿泊
 西臼杵にしうすき郡から険しい山越えで官軍の追撃を逃れた西郷一行は、美郷町南郷神門みかどを経て、1877年8月26日、米良山一帯を治めた菊池氏の旧臣・児玉愛平宅=西米良村村所=に宿泊。翌27日には西米良を離れ、小林市須木などを経由して鹿児島へ落ち延びた。

敗走の道中、西郷らが宿泊した旧児玉愛平宅
=西米良村村所             

 菊池氏は幕末に島津氏と手を結び、討幕運動に参加。西南戦争でも、薩軍に米良隊が参加した。西郷氏が菊池氏と同様、熊本県菊池市にルーツを持つこともあり、児玉は西郷を厚遇。自宅を出立後も道案内を買って出て、一行を須木との境まで送り届けた。
 同村の歴史に詳しい古川信夫教育長は「安全な場所などない敗走のさなか。ルーツが同じ人々に温かく迎えられ、さぞかし安堵あんどしたことだろう」と西郷の心中を推察する。
 愛平宅は現存しており、児玉氏の子孫が所有。戸棚の中には屋根裏部屋に通じる隠し階段があり、敵襲の際は屋根裏部屋から外に逃れられる仕組みになっているという。
 鹿児島に帰還した西郷は城山で官軍に包囲される中、同年9月24日に自刃した。


2.各藩の対応 ㊤

 時は1877(明治10)年2月。特権をことごとく奪われた士族の政府への不満が高まる中で、明治政府による“西郷隆盛暗殺計画”が発覚。ついに西郷が設立した鹿児島の私学校生徒たちが蜂起し、政府所有の爆薬を略奪する。これが引き金となり、7カ月余にわたる西南戦争が始まった。
 この「鹿児島不穏の報」は、鹿児島県令大山綱良から宮崎支庁に伝わった(2月4日付内報)。色めき立つ県内の各藩。旧佐土原、延岡、高鍋、飫肥藩は情報収集のため鹿児島に使者を出し薩軍に加わる時機をうかがった。「時勢に乗り遅れるな」。小藩同士のライバル意識が高まる。南九州士族の意地を見せるのか、静観するのか―。賭けにも似た緊迫感を漂わせながら“宮崎の西南戦争”は幕を開ける。

■「佐土原藩」すぐに出兵
 県内で最も早く出兵したのは佐土原藩だった。同藩の頭脳集団である「自立社」幹部が「西郷立つ」の知らせを受けたのは2月5日。情報収集のため3人を鹿児島へ派遣したが、時同じくして「飫肥藩が軍を編成して出発した」との情報が流れてきた。
 「遅れをとったら面目が立たぬ」。3万石の小藩とは言え、佐土原藩は薩摩藩の支藩。その誇りから、三人の帰りを待たずに翌六日からわずか3日間で出動準備を整え、同9日には第一陣の「晑義きょうぎ一番隊」が出陣。入隊を申し込む者が続出し、総勢2百2、30人に達したという。
 隊員のいでたちは多くが洋服、和服のそぎ袖、つつ袖、羽織、ダンブクロ(ズボン)。帯に刀、手には銃。頭髪は散切り(断髪)。10年前の戊辰戦争時の勇壮な佐土原隊の面影はなかった。それもそのはず、急な決起であったため軍資金も調達できず各自自己資金を持っての出兵だったのだ。
 急ごしらえの編成ではあったが、隊員は西郷の大義名分に同調して燃えていた。晑義一番隊の監軍を務めた小牧秀発が残した「小牧日誌」によると、「(自立社の)討論学習で参戦の理由を論じ合い、考え方も統制の取れていた者が中心の部隊」とある。

曾祖父の小牧秀発の思い出話を語る石田貴愛さん
(左)と小牧義恭さん            

 小牧秀発を曾祖父に持つ宮崎市佐土原町下田島の石田貴愛さん(66)は、秀発について、「西南戦争については多くを語らなかった」と振り返る。「国内最後の内戦で、日本が発展していくための一つの区切りだった。(薩軍の)負け戦でもあったし、戦いが終わって世の中が変わっていくのを肌身で感じていたんじゃないでしょうか」
 晑義隊は大雪に難渋しながら兵を進め、田原坂の激戦など各地で交戦。多くの戦死、負傷者を抱え、4月に佐土原に帰着した。生き残り百余人を中心に軍「遊撃隊」を結成し、すぐさま再出兵するが、8月に消滅した。

日南市楠原の西公園にある「西南役記念碑」。
飫肥の町を向いている碑には、小倉処平をはじ
めとした従軍者549人の名が刻まれている 

■「飫肥藩」若者ら蜂起
 2月6日、飫肥藩にも薩軍決起の知らせは伝わった。隠居の身ながらもご意見番的存在だった元家老平部嶠南のもとに使者が駆けつけた。「大事件発生! すぐに事務所へ」。しかし、嶠南は断る。するとその夜、今度は宮崎支庁から早馬で決起の知らせを持ち帰ってきた石川駿が嶠南の説得にやって来る。「決起の理由ははっきりしている。人々を制止してもらっては困る」。この後も嶠南宅の門をたたく者が続いた。
 嶠南は、爆薬略奪事件は大義名分が立つものではないと考えていた。しかも飫肥と薩摩には数百年間争い続けた過去があり、良い関係とは言えない。しかし、時代の流れにあらがえず維新以降、両藩は同盟の誓いを立てている。「騒動を傍観しているわけにはいかぬ」。複雑な心中を六隣荘日誌につづっている。
 嶠南ら慎重派の憂いをよそに藩の若者の間には参戦ムードが一気に広がっていた。志願者は一夜にして千人以上に達したという。その背景には後の飫肥隊総裁・伊東直記と河崎新五郎の両人に加え藩校振徳堂の取締役小村艮輔ら教員が従軍を呼びかけたことがあった。
 ただ、志願者全員が自発的に参戦したわけではなかった。一番隊幹部の深水嘉平は「戸長なので従軍を断ったら大将に『仕事を辞めて参加しろ』と言われ無理矢理連れて行かれた」と後述している。日南市生涯学習課の岡本武憲さん(49)は「飫肥では上下関係が特に強く、先輩の命令は絶対だった」と語る。
 千人超の志願者から162人が選ばれ飫肥一番隊を組織、9日には出立した。この後、二番隊と清武隊と合流し約500人の「飫肥隊」に再編成。出兵は、飫肥が官軍の進駐を受け降伏する七月末まで続いた。

■「都城領」 
 薩摩藩都城領では、県内の藩の中で最多の1千580人を戦地に送り込んだ。だが、その出発は3月8日と、県内でも最後発組に入る。
 西郷決起の報を受けた2月中旬、東胤正ら都城隊の幹部らは鹿児島へ向かい、薩軍幹部に出軍を願い出る。しかし薩軍から帰ってきたのは「従軍の定員は満たされているので、帰郷して沙汰を待て」というつれない返事。ようやく出軍要請が来たのは3月になってからだった。都城史談会顧問の児玉三郎さん(84)は「この間、薩軍従軍派は早く西郷と行動を共にしたくてムズムズしていたと聞いている」と語る。
 出発がかなった都城一番隊は昼夜兼行で行軍し、12日に熊本に到着。熊本城包囲軍に加わる。その後、御船や人吉など各地で交戦。255人いた隊員は、8月2日に財光寺村(日向)にたどりついた時には、わずか23人となっていた。その翌日、官軍が北方の富高を占領したとの報に、一同進退極まったとして解散した。


ラストサムライ

 ▽1941(昭和16)年
 都城島津藩士として、戊辰戦争に18歳で従軍した本県「最後のサムライ」永瀬岩登いわと氏が92歳で死去。鳥羽・伏見の戦いでは淀川の堤で旧幕府軍から狙撃を受けたが、弾は持っていた銃に命中、九死に一生を得た。西南戦争では西郷軍に身を投じ各地を転戦。戦後は都城警察署の警察官に。1896(明治29)年、都城町(現都城市)に開かれた、流派を問わない剣道場「講武館(旧講武会)」の設立発起人の一人にも名を連ねている。俳優の永瀬正敏さんの曽祖父。

=宮崎日日新聞社・きょうの歴史/2月2日付より=


3.各藩の対応 ㊦

■「延岡藩」時流で参戦
 1877(明治10)年二月中旬、旧延岡藩にも衝撃が走った。鹿児島県令大山綱良から宮崎支庁長藁谷英孝わらがいひでたかを通して伝えられた薩軍蜂起の知らせ。「加わるか否か」―。藩士の間で連日討議が重ねられ、数人が宮崎支庁へ藁谷を訪ねた。
 同14日、藁谷に参戦を勧められた藩士たちが県庁に到着。しかし、県令には会えず、待っていたのは「加勢は無用」との思いもよらぬ返事。西郷隆盛が開いた「私学校」へ行き幹部への面会を求めたが、ここでも門前払い。何の収穫も得られぬまま、20日に延岡に帰り着いた。
 それでも三日後、西郷軍に呼応することを決し、第一陣約200人、翌日には第二陣約30人が出陣した。

延岡市大貫町にある西郷隆盛宿陣跡。8月2日から
9日間滞在した。西郷が初めて延岡入りをした場所
として知られている              

 なぜそこまでして参戦を決めたのか。既に佐土原、飫肥が出陣していたこと、西郷の人望、同郷(同じ県)の義務感などが挙げられるが、一言で言えば「時流」だった。
 これに加え、延岡西南役会顧問の谷川良宣さん(86)=延岡市=は「藩士の胸の中に(幕末の)蛤御門の変で参戦が遅れた苦い思い出があったのだろう。同じてつを踏むまいと、挙兵したのではないか」と推測する。
 熊本で主に海岸防衛を担当した延岡隊。その後第六陣まで出陣し、転戦したが、8月14日に降伏した。
 参戦者1千396人。死傷者は169人に及んだ。戦死者80人全員の名が、延岡市の今山八幡宮にある延岡隊戦没者招魂碑に刻まれ、毎年4月20日に慰霊祭が行われている。

■「高鍋藩」出兵も大きな痛手
 旧高鍋藩に知らせが入ったのは2月7日。「佐土原はもちろん飫肥、清武、延岡でも出兵の動きがある中、高鍋がぐずぐずしているのは不都合ではないか」。そんな声がくすぶり始める。
 高鍋では維新以来、重大な問題が起こった時は、士族たちが旧舞鶴城内の「千歳亭」で衆議して決める「演説会」を設けていた。参戦問題は生死にかかわる重要案件。10日に始まった演説会には、寒風吹きすさぶ中、約800人が集まった。
 議論は空転。翌日も翌々日も結論は出ず、とりあえず代表四人を鹿児島へ送り、内情を探ることになった。しかし他藩同様、鹿児島で冷たくあしらわれる羽目に。22日に帰着した4人は翌日、千歳亭にて「県令の指示を待つしかない」と報告した。
 4人が鹿児島に行っている間にも参戦の準備は進められていた。この時既に佐土原、飫肥など日向各地からは次々と隊が出ていた。完全に他藩に後れをとってしまった高鍋藩。参戦派は当然報告に納得せず、勝手に隊を結成する始末。勤王派の多い藩の指導層は、参戦派をなだめるのに必死だった。最後の藩主秋月種樹が政府に重用されていたことも、二の足を踏む遠因にあった。

九烈士が投獄された籾蔵内。石井正敏さんは西南
戦争における高鍋の資料を収集し、6年前から写
真やパネルなど約100点を常設展示している=
高鍋町・黒水家住宅敷地内          

 3月4日。「薩軍の貴島清が参戦に躊躇ちゅうちょする高鍋を攻めに来る」という風評がたった。例のごとく演説会が開かれ、使者2人を貴島のもとへ派遣。8日夜半に使者が連れてきた貴島の部下は、薩軍のナンバー2の桐野利秋が大山県令に募兵を依頼した手紙を示した。同時に「高鍋の兵を出すべし」と貴島の“脅迫的”な伝言も伝えた。
 「もはや高鍋だけ孤立するわけにはいかぬ」。区長らはついに翌9日の出兵を決めた。
 以降、高鍋は千人近い兵を送り出し、78人が戦死。住民を巻き込んだ激しい戦いはなかったものの、参戦反対派を幽閉した「九烈士入牢」、城下焼き討ちなど高鍋は大きな痛手を受けた。
 曾祖父と祖父が高鍋隊の幹部として参戦した高鍋町南高鍋の石井正敏さん(81)は「隣近所、親せきが敵味方(参戦是非)に分かれた。今思えば同じ国民同士が殺し合う悲しい、馬鹿みたいな話じゃね」とつぶやいた。

九烈士入牢(きゅうれっしじゅろう)
1877(明治10)年5月末日、穏健派の秋月種節、黒水長慥らの救出を企てた司法官の三好退蔵の手紙が薩軍に見つかった。福島隊率いる坂田諸潔は、手紙に出てくる種節、長慥、手塚元吉、柴垣前定、荻原恕平、滝沢弘、横尾炳、竹原麻太郎、渡辺喜平の9人らを舞鶴城島田門近く(現高鍋農業高テニスコート)のもみ蔵に投獄した。この9人は出兵反対を唱え続けた藩の識者だった。8月の高鍋陥落の際、諸潔が本営を捨て去る時に投獄者の抹殺を指示したが、間一髪のところで官軍の手によって救出された。ただ種節は、6月に獄中病死した。

■「高岡郷」
 旧薩摩藩領だった高岡郷には「私学校」の分校があった。その生徒らが先陣を切って薩軍に参加。宮崎市文化振興課主任技師、今城正広さん(38)は「最終的には5百人以上が出兵した」とみている。高岡にとって薩軍への参加は、「同郷のよしみ」的な意味合いが強かった。
 高岡郷参戦の経緯の記録が「たかおか第五号―西南の役特集号」に残っている。それによると、地域の人が総出で作業をしていた時に使者がやって来た。「西郷さんが熊本に出発しやったそうな」
 それを聞いた住民はその場で対応を協議。「西郷さんが熊本に行きやったら行かにゃなるめ」。結論が出るまでに、そう時間はかからなかったという。
 高岡郷の士族たちは、少なくとも3回に分かれて高岡をった。私学校隊は2月10日に出立、鹿児島に到着後すぐに薩軍大隊に配属された。高岡隊は3月10、30日に出発した。


籾蔵の九烈士=旧高鍋藩

反薩を唱え続け監禁
 薩軍に加わることの非を唱え続けた旧高鍋藩の反対派9人が西郷軍に監禁されたもみ蔵が、高鍋町上江の町指定有形文化財・黒水家住宅敷地に残っている。

高鍋藩家老秋月種節ら薩軍に加わることの非を唱え
続けた9人が監禁された籾蔵=高鍋町上江    

 9人は高鍋藩家老の秋月種節たねよ、黒水長慥ちょうぞう、荻原恕平じょへいら。1877年6月12日に拘束され、「籾蔵の九烈士」として語り継がれている。高鍋からは700人余りが戦闘に従事し78人が戦死。城下は焼き討ちに遭うなど大きな痛手を受けた。種節は同月に獄中で病死したが、残り8人は同年8月の高鍋陥落後に解放された。
 籾蔵はもともと高鍋城の島田御門近く(現・高鍋農業高庭球場)にあり、明治の初めに移設された。建物内には参戦派と反対派が激しく対立した様子の絵や高鍋隊の進路を示した図、九烈士、隊士たちの写真など約80点を展示。町社会教育課の松行弘晃文化係・埋蔵文化財係長は「籾蔵は西南戦争と高鍋の関わりを今に伝える貴重な建造物の一つ」と話す。
 種節の4人の息子、外交官秋月左都夫さつお、実業家鈴木馬左也まさやらは日本の発展、近代化に力を尽くし「高鍋の四哲」とたたえられている。


ここから先は

29,865字 / 37画像

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?