【連載企画】霧島よ
20以上の火山が連なる霧島連山。シリーズ「霧島よ」を通じ、雄大な山々と周辺地域との関わりをあらためて見つめたい(宮崎日日新聞社本紙・地域統合面に2020年1月7日~2021年4月7日まで連載されたものです。登場される方の職業・年齢等は掲載当時のものです。ご了承ください。)
第1章 山と生きる
第1章「山と生きる」では、趣味や仕事などさまざまな形で霧島に接する人々を紹介する。
1.登る
猿渡和彦さん(78)=都城市南鷹尾町=
■霊峰から初日に祈り
午前7時12分。天孫降臨の地とされる霧島連山の霊峰・高千穂峰(高原町、1574メートル)の頂に、かなたから2020年の初日が差す。千人近くいるだろうか。登山者の歓声や万歳の中、都城市南鷹尾町の猿渡和彦さん(78)が静かに手を合わせた。
登山歴30年。富士山や北アルプス槍ケ岳など名だたる山々も毎年登るが、“初登り”は必ず高千穂峰。「多くの山を見てきたが、やっぱり一番神々しく感じる」。金色の初日と山に願うのは、1年間の山行の安全と家族の幸せだ。
福岡県出身の元海上自衛官。妻洋子さん(75)の実家がある都城市に移った17年前から、本格的に霧島の山々に通い始めた。年間100回が目標の山行のうち30回ほどが同連山だが、登山口に向かう車中は今も「わくわくする」。
四季の草花、雄大な眺望、苦しい急登…。「山の面白さを手軽に体験できるのが霧島」と猿渡さんは語る。高千穂峰だけでも猿渡さんが主に使う登山口が5カ所あるなど、ルートの多彩さも魅力という。
「退職後に暮らし始めた都城で楽しくやれているのも霧島のおかげ」。山で出会った友人たちとの情報交換も生きがいの一つだ。
かつては何十人も追い越しながら登った猿渡さんも70歳を過ぎたころから、追い抜かれることが増えた。昨年は大病で1カ月の入院も経験。「昔は一気に登った斜面で休憩するようになった。生の実感も老いも山が教えてくれた」と笑う。
元日の道中、猿渡さんは見ず知らずの子どもや不慣れな登山者に声を掛けた。「こっちの方が歩きやすいよ」「ほらもう少し」…。「元気に登れる間に、一人でも多くの人に霧島を好きになってもらいたくてね」。猿渡さんなりの山への恩返しだ。
2.信仰
東霧島神社宮司 稲丸利弘さん(74)=都城市高崎町=
■畏敬の念、感謝と共に
霧島連山の最東端・長尾山。その麓に位置するのが、都城市高崎町の東霧島神社だ。創建は2千年以上前とされ、敷地内には神宝「十握の剣」で切られたとされる「神石」や鬼が一夜で石を積み上げた伝説が残る「鬼磐階段」などがあり、一帯は神聖な雰囲気に包まれている。
同神社は、霧島六所権現の一つ。約半世紀宮司を務める稲丸利弘さん(74)=都城市高崎町=は「山への恐れや感謝、山で働く人への安全を祈る宮として親しまれてきた」と話す。
同神社は平安時代、霧島連山の噴火に見舞われ、「十握の剣」が行方不明になるなど、大きな被害を受けた。後に剣は見つかり、神社は天台宗の僧・性空上人が再興したとされるが、山の恐ろしさを受けてか、社殿隣には火をつかさどるヒノカグツチノカミを祭神とする愛宕神社が鎮座する。火難や災いなどから守ってくれるとして、稲丸宮司は毎月、祈りをささげてきた。
しかしそんな中、2011年新燃岳(1421メートル)が噴火。稲丸宮司は「神社に被害はなかったが、噴石が飛び、空は灰で真っ黒。山の恐ろしさを感じた」と振り返り、「霧島山を囲むように六所権現などのお社があるのは、昔の人が山々に畏敬の念を抱いていたからだと実感した」と語る。その一方で「山からは多くの恵みを受けており、湧水のおかげで地域の田畑も潤っている。偉大な山」と感謝の言葉も口にする。
豊かな自然について多くの人に知ってもらい、地域活性化を図ろうと、稲丸宮司ら有志を中心としたメンバーは長尾山を約15キロ歩くイベントを開催。17年まで25年間続け、県内外から訪れた大勢の登山客が雄大な自然に触れた。
人々の暮らし、神社と密接に関わってきた霧島連山。稲丸宮司は「地域の人たちが守り神として仰いでくれたから、今日まで存続することができたのだと思う。今後も伝承を大事にしつつ、多くの人に心を寄せてもらえるようになれたら」と静かに語った。
3.恵み
湯穴温泉経営 別府さん一家=都城市吉之元町=
■親子3代 癒やし提供
霧島連山の火山活動は、噴火で周辺で暮らす人々に牙をむく一方、温泉や豊富な湧水によって健康を支え、多くの癒やしをもたらしてきた。
源泉がある集落名から名付けられたという都城市吉之元町の湯穴温泉は、親子3代が温泉に関わってきた。泉質はカルシウム炭酸水素塩冷鉱泉で、やけどや神経痛、擦り傷などに効くとされ、市内外に根強いファンを持つ。
高千穂峰(高原町、1574メートル)を望む同温泉は、1967(昭和42)年に開業。社長の別府砂男さん(83)=都城市吉之元町=が、約6キロ離れた源泉から友人らと共にビニールパイプをつなぎ合わせて水を引いた。馬車を使っていた時代で「今ならあんな大変な作業はできなかった。苦労して造った」と振り返る。
源泉は国有林内にあり、山師だった父美徳さん(享年97)が、すぐ横に山小屋を建てたのが同温泉のルーツ。現地で五右衛門風呂を沸かし、湯治場を設けた。「父が建てた小屋の石垣が源泉のそばに今も残っている」と砂男さん。「これまで休まず働いてきた。噴火や土砂崩れなど自然災害は大変だけど、温泉は大事な山の恵み」と力を込める。
後を継ぐ長男の清一さん(52)=同=が現在、施設の管理を担う。新燃岳や硫黄山の噴火などもあったが、幸い泉質や湧出量に変化はなかった。「地中にパイプを敷設しているので地震が怖い」とこぼす。
幼い頃、砂男さんに連れられ源泉までよく歩いたという。周辺の山は遊び場で、シイノミやアケビなどを食べ、川で魚釣りもした。「四季折々の山を見るのが好き。雄大な高千穂峰を眺めると、安心感とともにパワーをもらえる気がする」と話す。
温泉の利用客は1日30~80人。噴火の影響に加え市内に第三セクターなどの温泉もあるため、年々減少している。清一さんは「自然相手で先は見えないが、父が苦労して造った温泉をなくすわけにはいかない」と決意。山と向き合いながら、時には脅威と闘い、共生する道を歩んでいる。
4.観光
えびのガイドクラブ会員 眞方幸雄さん(73)=小林市細野=
■力強い自然 人々魅了
年間数十万人もの観光客が訪れる、えびの市のえびの高原。スケートやキャンプ、温泉などさまざまなスポットがあるが、多くの人たちを呼び寄せる最大の魅力は、やはり山だ。
「気軽に登れるだけではない。あらゆる人を満足させるほどの素材や景色が、この山々に詰まっている」。「足湯の駅えびの高原」でガイドを務める眞方幸雄さん(73)=小林市細野=は、人々が霧島連山に魅了される理由を、そう考えている。
眞方さんは退職後の2007年、霧島ネイチャーガイドクラブの「山学校」に参加し、霧島連山の魅力に強くひかれた。その後は霧島ジオパーク中級ガイドの認定を取得し、13年に発足したえびのガイドクラブに参加。ツアーのガイドなどを通じ、登山客らに山の魅力を伝え続けている。
花や木、景色、野鳥…。人によって山を歩く目的は違う。眞方さんが目指すのは「すべての登山客を満足させるガイド」。時間を見つけては山に登り、撮りためた写真は数百枚になった。花の咲く季節や場所、紅葉や霧氷のおすすめスポットなど、さまざまな魅力を頭にたたき込んできた。
山を下りてきた人たちの笑顔を見るのが、眞方さんにとって何よりの喜び。ツアーではリピーターの姿も見掛けるようになり、「少しずつではあるが、新しい霧島のファンは増えている」と目尻を下げる。
同高原の観光客数はピーク時の1974(昭和49)年の201万人から、2018年は4分の1ほどに減った。一方で、近年は海外からの登山客が増加。急速な会員制交流サイト(SNS)の普及により、霧島連山の美しい風景が世界に発信されることも珍しくなくなった。こうした状況に対応しようと、同ガイドクラブは昨年9月から毎月3回、英語や中国語を学んでいる。
眞方さんは「美しくて力強い霧島の自然には、国境を超えて人々の心を打つ力がある。今、ようやくそれが形になりつつある時代。体が動く限り、霧島連山に携わり、世界中にファンを増やす手伝いをしたい」と力を込めた。
5.生物
えびのエコミュージアムセンター主任 須田淳さん(37)=えびの市池島=
「霧島の魅力は新旧の火山が生み出す生物の多様性」と、えびのエコミュージアムセンター主任の須田淳さん(37)=えびの市池島=は語る。登山道の修繕や美化活動、ガイド、自然情報の収集・発信など日常業務をこなす中で、霧島と密接に関わる。「昆虫にキノコ(菌類)、野鳥…生き物の宝庫。毎日が発見と喜びの連続で、山に入るたび宝探しをするみたいにわくわくする」。その笑顔には屈託がない。
埼玉県川口市出身で専門学校を卒業後、自然公園財団の職員となり福島県の浄土平支部に配属された。登山に没頭し、毎週のように東北の山々を歩いた。その後、養豚業に転職して鹿児島県南大隅町に4年間居住。昆虫を探すため足を運んだのが霧島と触れ合った最初だった。11年前に財団職員に戻り神奈川県の箱根支部で6年勤務。えびの支部で5年目を迎えた。
子どもの頃から昆虫好きで、霧島でも探し続ける。「ムラサキアオカミキリを見つけたときは感激した」。昆虫の生態を学ぶにつれキノコ、野鳥へと興味は広がり、そこで実感するのが霧島の懐の深さだった。
「生きている火山(活火山)のすぐそばで活動できる場所は少ない。新旧の火山が他にない景観や生物の豊富さをもたらしている。踏み入れれば踏み入れるほど魅力が増すすごい所」とほれ込む。
自然情報の収集ばかりではなく発信にも力を注ぐ。センターには自身が撮影したウスキキヌガサタケやヒメベニテングダケなどの美しい写真を掲示している。「年間千ミリを超える日本有数の降雨量で、湿った空気と環境がさまざまなキノコを育てる。成長の過程で姿形が変わり飽きることがない」と話す。
昨年12月には小林市民大学で講師を務め、キノコの探し方や食べ方、毒、めで方などを紹介し魅力を伝えた。「老若男女問わず同じ目線で楽しめるのが霧島の素晴らしさ。もっと身近に感じてほしい」。心から願っている。
6.撮影
写真愛好家 石神義男さん(69)=小林市南西方=
「地元から見る山がいっばん(一番)よか」。霧島の麓で暮らす多くの人と同じように、小林市南西方の大工石神義男さん(69)も誇らしげに語る。「夷守岳、韓国岳、甑岳のバランスが絶妙。それぞれが最も映えるのが西小林」。山の話になると時間がいくらあっても足りない。
写真が趣味で、休みのたびに相棒のミラーレス一眼と山に出掛ける。「自然が『ここを撮って』と語り掛けてくる」。キノコが覆った倒木は「天をめざす龍」、虹色に反射する氷は「エンゼルフィッシュ」…。独学で腕を磨き、切り取った風景は専門誌でたびたび入賞してきた。
4人きょうだいの長男。中学卒業と同時に市内の大工に弟子入りし、36歳で独立した。都会で挑戦したい思いもあったが、簡単に言い出せる時代ではなかった。「地元に残ったのは長男だったから。好きとか嫌いとかじゃなかった」
自衛隊の航空機を撮ろうと40歳で写真を始めた。山にレンズを向けたのは、ただ近くにあったから。だが、ファインダーをのぞくと、当たり前だった風景が一変した。山が水田に映る春、霧に包まれる夏、秋の赤茶色や冬のモノトーン。霧島の美しさに息をのんだ。
県外のカメラ仲間が増えるにつれ、外の声も聞こえるようになる。「こんないい山、ほかにないよ」「霧島の近くで暮らしたい」。初めて心から「ここに住んでいて良かった」と思えた。
石神さんお気に入りの一枚がある。2011年1月、自宅近くの田んぼから冠雪の霧島を望んだ写真。牛の餌となる山積みの稲わらが印象的だが、ビニールで覆うのが一般的となった最近では、見られなくなった光景だ。
「人が生きるため、古里はどんどん変わる。せめて写真で残したい」。最近は道端の雑草さえいとおしく感じるようになった。「変わらない霧島は心のよりどころ。だからこそ、それぞれの地元からの姿が一番美しいのだろう」。雄大な山はきょうも人々の暮らしを見守り続ける。
=第1章おわり=
霧島の山々の頂が白く染まる冬。霧氷や雪など、この時季にしか見られない絶景を求めて多くの人が山に出掛ける。連載「霧島よ」の番外編として、山愛好家が撮った写真で冬山の魅力を紹介する。
■霧氷、雪 生み出す絶景
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