春雨と46,661歩の記録
おもむろに、大学院ぶりにnoteを再開してみた。
ずっと書くことには憧れていたし、私は小学生のころに作家になりたかったのだ。小学生ぶりに、思いのままに書いてみることに無邪気に挑戦したい。
さて、ここ最近は本当に雨が多かった。
3月下旬から4月頃にかけていつまでも降り続く、地雨のようなしっとりした雨のことを「春雨(はるさめ)」というらしいが、まさにいつまでも降り続いていたように思う。
なんか、昔から使われている日本語の響きって美しいね、雨すら愛おしくなる美しい呼び名です。
そんな天気になるとは思いもよらず、外出する予定をたくさん入れてしまっていたけど、予定変更ひとつせず、全てを完遂したことは我ながら自分らしいなあ、と思った。でも、不思議とここ数日の雨の中での歩みは、意外と悪いものではなかった。
詳しくはまた後日書きたいのだけど、週末に訪れた伊勢神宮への初参拝も、もちろんずっと雨。そして、昨日のお茶のレッスンの往復の道のりもずっと土砂降り。
自分でも笑ってしまうほど雨女でして、昨年挑んだ百名山チャレンジの最後の至仏山も「前日の晴天はどこ行った?」ってくらい、登山道が川になるレベルの雨だった。
でもね、わりと雨の中で歩き回ってる(?)からこそ、私は雨の日が思ったほど嫌いじゃない。うーん、慣れてるだけなのかもしれないけど。
なんとなくだけど、雨の日が意外とキライではない理由を少し考えてみた。
<雨の日が好きな理由①>何かと集中しやすい
雨の日って、集中できるからすごい好き。
私のような多動さんは「あああ、良い天気!何かしたい!(うずうず)」ってなっちゃうけど、雨の日は「どうせ外出たくないし、溜まってた仕事と家事を片付けてしまおう」って考えて、やるべきことを実行しやすい気がする。
というのはすごい自分の主観なのだが、「雨の日=集中できる」は結構周りでも聞く気もするので、雨と集中力の関係について客観的な研究も調べてみた。
めちゃくちゃ有難いやないか、雨ェ・・・
音ばっかに注目してたけど、視覚効果も素晴らしいんですね。確かに雨の日に乗ってる車とかバスから眺める景色、結構自分は好きかも。
<雨の日が好きな理由②>景色が美しく見える
これも結構聞く話かもしれないけど、百名山狂い(=登山に熱中しすぎていた状態)だった期間、わりと体感していたこと。
緑がより緑に見えるし、恵みの雨を受けた山の木々や植物たちがとにかく雨に打たれながらも美しく見えたのです。
98座目の飯豊山(いいでさん、山形と福島にまたがる美しい百名山)に1人で挑んだ時も、そういや雨だった。特に下山は結構な強風と叩きつけるような雨の中だったので、スリリングな岩場で滑って谷底に落ちるんじゃないかと、かなり肝を冷やした記憶がある。それでも色づく紅葉の葉が雨の重さで揺られながらも、佇む姿は美しかった。
・・・そうか、目に見えなくても空気中にはチリや埃が舞ってるんよね。雨が降るからこそ見える景色ってあるんやな。
冬には空気が澄んで景色が遠くまで見えるのと、なんか一緒なのかな?
(違う気もするけど、なんか私には腑に落ちた)
<雨の日が好きな理由③>自然の中で生きていることを実感する
3つ目はとんでもない主観的な理由です。
けど、これが一番好きな理由。
私たちが生きている社会はあまりにも便利すぎて、そして自然からの距離もすごく遠くなってしまった気がする。特に都会に暮らす自分はなおさら。
地元(田舎)で過ごした幼少期は、日々伸びる田んぼの稲の様子を眺めながら登下校して、用水路で遊んで、夕方はカエルの鳴き声を聞きながら、公園もしくは友達の家から帰っていた。
そんな自然の音に触れなくなって結構な年数が経つ。
私が山に登り始めた理由は無数にあるのだけど、もっと自然の近くにいたいと願う気持ちが強くあったのは間違いない。
大げさかもしれないけど、雨は、都市にいながら水の循環を実感できる営みなのかもしれない。
傘を差すのはめんどくさいけど、けど傘を差さないと見えない景色も音色もあるんだよね。
(どうでも良いけど、傘を「差す」ってのが正しい漢字なの初めて知った)
おしまいに、最近読んでいる本に素敵な一節があったので、ご紹介したい。
雨を降っている瞬間、愛されてるっていう感覚にはまだなれないんだけど、きっと植物たちは笑って雨を受け止めてんだろうな。晴れた日が続いたら、そりゃ喉乾いてるよね。
水の循環があり、雨が降ってくれるからこそ育つ作物によって生かされてれるのもまた事実で、想像力がちょっとだけ豊かになれば、雨だって悪くないと思える瞬間が増える。
と言いつつ、久しぶりに見た太陽と青空はやっぱり気持ちよかった。
そんな晴れた日に記す、雨の3日間に歩いた合計46,661歩で感じたことの記録でした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?