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自分が明智光秀子孫であると知ったキッカケは、なんと!新選組斎藤一

今回は自己紹介の続きと、先祖調査をはじめたキッカケについて書いてみます。

先日の記事で少し書きましたが、子どもの頃から新選組好きだった私は2004年大河ドラマ『新選組!』に大ハマリし、フィクションの世界ではなく、本物の新選組を知りたいという気持ちを強く持つようになりました。

特に幹部隊士の一人、斎藤一のことを毎日毎日飽きもせず真剣に考えるようになっていきました。

私は神戸市生まれで、現在は仕事の関係で大阪に住んでいます。
幸いなことに阪急沿線住まいのため、新選組の聖地・京都壬生へは阪急京都線に乗って1時間もかからず行くことができます。
大河ドラマより何年も前から、壬生村は何度も訪れていた思い出に満ちた場所です。

ウチから大きな図書館へも比較的近いので、休日は聖地巡礼&図書館で史料探し、研究者の講演会や新選組関連イベントに出かけるという日々を送るようになりました。

連休をとり北海道から九州まで巡礼するうち、何度もお会いする研究者さんとたちと親しくお話しできるようになりました。

10年ほど前、ある研究者さん主催で斎藤一関連の聖地巡礼に参加しました。

ここで斎藤一のプロフィールをごく簡単にご紹介しておきます。

新選組幹部の中で最年少組であった斎藤一は江戸出身で、本名は山口一。
ハジメの父は、鈴木という旗本に仕える御家人身分の人物です。
ハジメの兄である長兄は、長じて父親と同じく鈴木家の公用人として勤めるようになります。

家を継げない次男坊のハジメは紆余曲折あって京都へ上り、(恐らく江戸にいた時から、後に新選組となる面々とは知り合いでした)新選組に加入しました。

京でのおよそ5年間を経て、時は幕末。
新選組は鳥羽伏見の戦いに敗れました。

その後ハジメは会津へと行き、会津藩士と共に戦いを続けた後江戸へ戻り、西南戦争に警視隊として従軍した後、警視庁に奉職します。

そして晩年は、妻や家族に看取られて畳の上で大往生を遂げます。
71年の波乱に満ちた生涯でした。

こうやってごくごく簡単に書いていても、ハジメさんを想うと胸に込み上げるものがあります。

本当にハジメさんのことが大好きで、ハジメさんに関することは全て知りたいと、今も思い続けています。

ですのでハジメさんの生まれた場所から亡くなった場所までを巡るという、とてもマニアックな巡礼をしていたその日、研究者さんの一言に、心臓がドキドキ鳴りはじめました。

「斎藤一の父が仕えていた旗本鈴木家のご先祖は、島原の乱に関わっていたそうです」

えーっ!?島原の乱?

私の父親は島原出身なんですけどぉーっ!!

いやー、なんだか面白くなってきたなぁと、興奮しました。
単に島原という地名が出てきただけで、私と鈴木家とは何の関係もないのに(と、その時は思ってました)。

なんだかほんのわずかでもハジメさんと繋がりがあるような気がして、これは島原の乱について調べなければ!と決意して、大阪へと帰りました。

それからまた図書館通いの日々がはじまり、島原の乱について調べていると、すぐにある人物の名前に突き当たりました。

三宅藤兵衛重利
天草島原の乱で亡くなった武士。
その人の持つ家紋は「桔梗紋」

えー、なんか怖っ。
うちの家紋も桔梗紋なんです……。
島原・三宅・桔梗紋

土地・苗字・家紋
3点セットが揃ってしまいました(汗)

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