私の先祖は明智光秀と判明した過程。 その7

土地の不思議といえば、以前に書いたとおり私の父の実家は島原なのですが、その実家というのが原城からわずか2kmのところにあります。
その辺りというのは島原の乱、原城攻略戦の際に幕府連合軍の各藩が陣を張った場所なのです。

原城攻略戦時、そこには三宅藤兵衛の息子たちが出陣してきていました。

そして、三宅藤兵衛という人物はやはり明智一族に連なる人なのでした。

2020年、大河ドラマ「麒麟がくる」放映の年、熊本県立美術館において「細川コレクション 細川忠利と三宅藤兵衛 肥後にやってきた、光秀の孫たち」が開催されました。
三宅藤兵衛の名は知る人ぞ知る、のようです。

藤兵衛は島原天草一揆の勃発時に天草で討ち死にしており、遺児となった息子たちが島原へ出陣し、原城攻撃に加わりました。

その島原・天草一揆から数十年後、三宅藤兵衛の
子孫である人物が島原へやって来て、自分の先祖が戦ったその同じ村で暮らし始めました。
以後350年間一族はその場所に住み続けます。
その家が私の父の実家というわけです。


私の先祖はなぜ島原へやって来て、そこに住み始めたのでしょうか。


原城攻撃の激戦では多くの人々が亡くなり(島原の農民はほぼ全滅)、今もあのあたりには無数の遺骨が埋まっています。

自分の先祖が戦いを繰り広げ、その戦で亡くなった数え切れないほど多くの人々が埋まったままの場所、その同じ村で暮らし始めるとはいったいどういうことなのでしょう。


その答えを知りたくて、私はますます先祖を調べることに夢中になっていきました。


島原の乱に関わった三宅藤兵衛(重利)とは?


三宅藤兵衛は天草・島原の乱で討ち死にした唐津藩士ですが、もともとは熊本、肥後細川藩士でした。

天草・島原の乱当時、天草地方は唐津藩・寺沢氏の飛び地領でした。
その天草に富岡城という城があり、藤兵衛は富岡城の番代(城代家老)でした。
番代とは、唐津本藩の筆頭家老級の役職にあたります。
藤兵衛の石高は3000~3500石。


その頃天草地方は松倉氏の治める対岸の島原地方とともにキリシタンの多い地域であり、藤兵衛は藩主寺沢堅高の命によりキリシタンを取り締まっていました。

棄教しない信徒を拷問にかけた非道な人物だったというような話も伝わっていましたが、その説に異論を唱えたのが『天草の乱秘聞――富岡城に立つ虹』の著者村上史郎氏です。


天草出身の村上氏は丹念に史料を調査し、「藤兵衛はかつて言われた血も涙もない鬼のような人間などではなく、むしろ寺沢氏の圧政から領民を守ろうとし、キリシタンにも相応の理解を示した人物である」という主旨の評価を与えています。

藤兵衛について詳しくは、ぜひ『天草の乱秘聞』を読んでいただきたいと思います。


司馬遼太郎氏も『街道をゆく』シリーズの島原・天草編で「藤兵衛について多くはわからないが、松倉氏の家老たちのような悪逆非道な印象の人物ではなかったと思われる」という内容の一文を書いています。


寛永14年(1637)天草・島原の乱勃発。
蜂起した天草のキリシタン信徒を中心とした一揆軍は富岡城を攻撃。
一揆軍を迎え撃とうとした藤兵衛は出陣するも討ち死にしてしまいました。
享年52。

藤兵衛について調べていくと、衝撃的な事実がわかりました。

藤兵衛の父は明智光秀の家老であり福知山城代を
勤めた、明智秀満だったのです。

三宅藤兵衛の元の名は、おそらく明智藤兵衛であったと思われます。


藤兵衛の母は明智光秀の長女・倫子(倫子についても記録が少なく、また錯綜し、光秀の実子ではなく血縁関係にある親戚の娘を養女にしたという説もありますが、いずれにしても光秀の血を引いていることは間違いありません。)


倫子ははじめ織田信長の家臣・荒木村重の嫡男、
荒木村次の正室となりましたが、村重が謀反を起こした際に離縁され、明智家へと戻されました。
その後、光秀の重臣三宅弥平次に再嫁。
弥平次は光秀の女婿となり、明智秀満と名を改めました。
(秀満に関する史料の最も古いものに記された名は三宅弥平次。後世の史料に「左馬助の湖水渡り」として有名な明智左馬助という名前で登場してきます。)


秀満・倫子夫妻の間には嫡男藤兵衛が生まれ、一族は戦国の世ながらも幸せな日々を送っていましたが、天正10年、本能寺の変勃発。
その時藤兵衛は2歳でした。

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