「かわいそう」と言わない理由
僕は人に対して「かわいそう」と言わないようにしています。
・障害があってかわいそう
・介護していてかわいそう
・家が貧乏でかわいそう
世の中にはたくさんの「かわいそう」が溢れています。
「かわいそう」ってなんでしょう?
誰が誰に対して、どんな事象について「かわいそう」と言っているのでしょう?
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「生まれてきて”かわいそう”」
僕もかつて、いや、今でも「かわいそう」と言われます。
僕は生まれつき「乳製品」「ピーナッツ」が食べられません。
アレルギーです。
このことについて、僕は何度となく、こう言われてきました。
・食べられなくてかわいそう
・人生損しててかわいそう
・お母さん大変でかわいそう
・奥さん大変でかわいそう
・周りが気を遣ってかわいそう
耳を疑うでしょ?(目かw)
でも、そう言われていましたし、言われています。
僕は、生まれてから「一度も」
・自分はかわいそう
・自分は損している
・自分はダメなんだ
と思ったことがありません。
僕はとても幸せでしたし、今もとっても幸せです。
周りにいてくれる家族・仲間の存在もそう思わせてくれるし、自分自身のやりたいことも沢山あって、毎日毎日が幸せです。
僕にとっての「幸せ」の概念は、
「何人にも侵害されないその人個人の普遍的価値観の最高峰かつ日常的営み」
だと思っています。
誰からも規定されるものではないし、判断されるものでもありません。
しかし、こと幼少期の僕は、上記のような言葉を”立派な大人たち”から浴びせられることで、「生まれてきたこと自体」をも否定されているような気持ちになりました。
あれ?僕幸せなんだけどな・・・
いけないのかな・・・?
「かわいそう」を整理しよう
「かわいそう」は、誰の、何に向けられた言葉なのでしょうか。
考えてみたいと思います。
①「僕:ミヤケ」がかわいそう?
この場合、僕自身が、
「こんな身体で大変なんですよ(しょんぼり)」
「もう嫌になります(涙目)」
とか言っていれば、
「かわいそうだねえ。大丈夫だよ。」
と言うのは、まだ納得できます。
でも、僕のリアクションも見ず、何も言っていないのに「かわいそう」と言ってしまうのは、いささか早合点というか、取り越し苦労というか、勇み足というか・・(ことわざ使いたいだけ)。
決して僕に向けられた「かわいそう」ではないことがわかります。
②周囲の人がかわいそう?
「母親は苦労して、時に悲しみ、時に苛立ちを抑えながら、料理を作っていたんです・・・。」
「妻は、自分の好きなものを我慢し、レシピも苦労して探し、”もうこんな生活嫌だ!”とよく泣き叫んでいますよ・・・。」
とか言っていれば、
「お母さんも、奥さんもかわいそうねえ〜」
と言うのなら納得できます。
これについても、ロクに話を聞かないまま、その人の勝手な思い込みで「かわいそう」と安易に言葉を選んで、何のフィルターも通すことなく発言しています。
これも、僕の母親や妻のために発言しているものではありません。
自分の大切な価値観は、世の中の大切な価値観で、他人にとっても大切は価値観
①「僕:ミヤケ」がかわいそう?
②周囲の人がかわいそう?
そのどちらでもなさそうです。
誰のために言っているのでしょう。
そう、それは、「自分のため」です。
自分はまともだ、自分はちゃんとしている、
相手のことを思いやっている、
相手のことをちゃんと「かわいそう」だと思えている、
相手に伝えられている。
全て自分のためです。
少なくとも、今まで僕に「かわいそう」と言ってきた一部の人間の内側の感情は、透けて見えるように、「自分のための発言」として僕を苦しめてきました。
では、この根底にある”その人”の概念は何でしょう?
僕はそれを、
「自分の大切な価値観は、世の中の大切な価値観で、他人にとっても大切は価値観」
だと定義してみることにしました。
自分の正しいと思っている、大切に思っている価値観は、
きっと世の中のほとんどの人がそう思っていて、
目の前にいる相手もきっとそう思っている。
という自己満足的発想に過ぎません。
あなたの目の前に、あなたから見て「かわいそう」と思っている人はいますか?
それは本当にかわいそうですか?
あなたの独りよがりではありませんか?
「かわいそう」なんて、安易に言わないでくれ。
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(ちょっと過激な物言いだったかなあ。。。)
<終わり>
シニアの方々が、主体的に・楽しく生活し続けられるよう、頑張ります!少しでもご協力頂けると幸いです。