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めんどくさい、めんどくさいからこそ

noteを始めた時から、
「曜日感覚を無くさないためにも火曜日と金曜日を更新日にしよう」
と決めていた。

今日はその金曜日。
あたりめを食べ、口をもぐもぐさせながら
今このnoteを書いているのだが

”どうも今日はめんどくさいぞ。。”

そんなことを書くと、これを読んでいるあなたは気分が良くなるわけではないだろう。

むしろ、嫌な気持ちになる人の方が多いかもしれない。

「面倒ならやらなきゃいいじゃん」
なんて言われるかもしれない。

でも、僕は知っている。
ここまで続けてきたnoteですらめんどくさいと思っている時点で、
今日は何をしてもめんどくさい日なんだと。

じゃあ自分で決めたnoteを更新していこうじゃないか。

めんどくさいことばっかだよ。。

なんて自分はわがままなんだろうか。

数週間までは入院して、
移植治療で苦しい思いしながら、
シャバでの生活で全てのことが幸せに感じていた。

普通であれば、めんどくさいことですら幸せに思うべきだと自分自身でも思っている。

でもめんどくさいことはめんどくさい。

例えば、僕の机の横には大量の書類が溜まっている。

退職させられた会社から、
書類整理(提出など)を求められて
全然手につかない。

先ほど社員証や限度額適用認定証などを郵送したところだ。

できれば誰かが代わりにやって欲しいくらいだ。

でもよくよく考えたら、
人生ってめんどくさいで溢れているのではないかなんて思う時だってある。

いや、絶対そうだ。
好きなことをやっている時でさえ、
めんどくさい作業って絶対存在する。

問題は、めんどくさいと思っていながらもそれらの出来事に対してどう向き合うのかって話。

僕は気を紛らわせるために、
あたりめやピーナッツを食べているが、

他の人ならコーヒーを飲んだり、音楽を聞いたりするだろう。

プラスに捉えたら、
「めんどくさいことに価値があるのではないか?」

仕事におきかえても、
Aという作業を代わりに行うのでその報酬をください。
なんて世界ばっかだよ。

そう思えてきたら、今書いているnoteにも少しは価値があってもいいのではないかと思ってやる気が出てきたよ。

難しいとめんどくさいを一緒にしてはいけない

最近noteを書いていて言われるようになった。

「みやっちの文章が読みやすい」って。

とんでもない。。
でも嬉しいよ、素直に。

僕は元々文章を書くのが好きではなかった。
もっと言えば、日本語がうまくなかった。

書いた文章を先生や友達に提出すると、
「この日本語おかしいやろ!」
とツッコマれることが多かった。

だから僕はこう思っていた。

「日本語って難しい」
「文章を書くことって難しい」

って。

でもそれって本当なのかな?

今の僕が昔の自分にアドバイスをするなら、
「君はめんどくさいことを難しいと言い訳しているだけだよ」
と伝えたい。

実はわかりやすい文章って、
後から見直して、声に出して読んでみると
言葉の言い回しや使い方、誤字脱字、リズムの違和感に気づいてくる。

一言で言えば、見直しになる。

ただ、この見直しの作業が実にめんどくさい。笑

わかりやすく読みやすい文章を書くには、
この「見直し」の作業さえすれば、僕は誰でも書けると思っている。

でも多くの人が、
めんどくさい作業を「難しい」と履き違えているため自分にはできないんだと勘違いしてしまう。

この事実は正直教えたくなかった。

でも人生の多くのことを多くの人が、
めんどくさいを「難しい」と勘違いしてしまっていると僕は思った。

「難しい」のほとんどは実はめんどくさいだったりする。

だからこそ、めんどくさい作業には価値があると思う。

あとがき

小学生になった甥っ子が、宿題を僕のところに持ってきて、

「これ難しいから教えて」なんて言う。

でも実際は「難しい」ではなく、甥っ子にとっては「正解」という自信が欲しいがために大人に見てもらいたいなんてことがわかった。

僕ら大人は間違った方が勉強は身に付きやすいと知っているが、
いつの時代になっても子供は「間違ったら恥ずかしい、ダサい」という風潮がまだ拭いきれないみたいだ。。

どうにか甥っ子には、難しいことにどんどん挑戦して、失敗して、間違って何かを得て欲しいと願っているが、その時は来るのか。

まぁ長い目を見て期待しておこうかな。



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