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アメリカ世生まれの食生活

 私は1960(昭和35)年那覇市生まれです。
父は米軍作業員だったので、その後勤め先の基地近くの浦添市に引っ越して、そこで育ちました。なので私は浦添人(うらそえんちゅ)です。

 私が生まれた時は沖縄戦後まだ15年しか経っていません。

 しかし、当時は既に沖縄戦の痕跡は、周りの野原に時々薬莢が落ちているくらいで、とてもここがかつての激戦地であったことは想像できませんでした。(実は浦添は沖縄戦中最も「戦闘」が激しかった地です)それは、現在の国道58号線(当時は軍道1号線)の西に広がる広大な米軍基地が戦争の名残を覆い隠していることにも要因があったかもしれません。

 生活に影響を与えたのは基地の存在だけではありません。食生活もかなりの影響を米軍統治下という環境の中で受けていました。ただ、私は「アメリカ世」の生まれなので、戦前の質素な沖縄の食の事は知りません。祖父母や父母から聞いただけです。「イモばかり食べていた」と。私たちの世代は、生まれた時から普通にアメリカ食が生活の中にありました。

 とはいっても、まだまだ貧しかったので、日常の食事はフーチバー(ヨモギ)ジューシーやカンダバー(芋の葉)ジューシー、そして野菜チャンプルーが中心です。ただ、チャンプルー使う肉はいつも缶詰のポークランチョンミートやコンビーフハッシュでした。よくお使いでそれらを買いに行ったものです。

 家にはなぜかいつも「ファンタ」や「セブンアップ」がケースで置かれていました。いつもケースで安く売りに来る人がいたようです。
マヨネーズは必ずEGGOという商品。EGGOはアメリカ産ですが沖縄専用につくられていてアメリカでは販売されてないそうです。そういえば、チューリップ・ポークも、生産国デンマークでは売られていなくて輸出専用。そいうこともあって、私たちは逆に日本のメーカーのマヨネーズやサイダーやラムネが憧れでした。

 日本復帰からだいぶ経った時にマクドナルドが日本に進出したというニュースを見た時に「なにをいまさら」と思いました。ハンバーガーは、あまり食べはしなかったけれど日常よく目にする食でした。なので、日本のマクドナルドのハンバーガーの小ささに驚いたくらいです。ピザもタコスも甘いケーキも同様です。アメリカ世の食に共通することはとにかくカロリーが高いことでした。

そういう食生活だったからでしょう。かつて日本一だった沖縄の平均寿命は今では中位以下。今私たちはアメリカ世の時代の(不健康な部分の)食生活を克服しなければならないのかもしれません。

まずは、自分自身のメタボをなんとかしなければ、なのですが。

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