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<吐き気>の中のささやかな幸福


いま演奏されているのはジャズである。ここにはメロディがなく、まさに、音そのものの連続であり、無数の小さい振動である。その振動は休むことを知らない。

それを出現させて滅ぼす頑固なひとつの秩序があって、勝手に再び現われたり居座ったりする暇を与え押し合い、通り過ぎながら素早く私を撃ち、消えて行く。私はそれを引き止めたいと思うが、よしんば私が一振動を止めることができたにしても、私の指の間に、ろくでもない、力の衰えた一つの音しかもはや残らないことを知っている。

だからそれらの振動が滅んで行くのを、承知しなければならない。その死を(欲し)さえもしなければならない。私はこれ以上痛烈でこれ以上力強い感銘をほとんど体験したことがない。
 私は気力が回復し、幸福を感じはじめる。これも別に少しも異常なことではない。<吐き気>の中のささやかな幸福なのだ。

この幸福は粘々した水溜りの底に、〈われわれの〉時間──薄紫いろのズボン吊りと凹んだ腰掛けの時間──の底に展開する。それは、幅のある柔かい瞬間からできていて、油の染みのように周辺から拡大して行く。幸福は生れたばかりで、すでに年老いている。二十年も前から私はこれを織っていたように思われる。

 ほかの幸福もある。私の外部に、あの鋼鉄の帯のようなもの、音楽の緊密な持続がある。それは、われわれの時間を貫いて横切りわれわれの時間を拒否し、酷薄な細い尖端てそれをひき裂くわれわれの時間とは別の時間がある

J-P・サルトル『嘔吐』 P37


この文章の中の「私」はカフェに居て、いつも通うこのカフェに入った早々、この日は店内の「不潔さ」に吐き気がしてくる。店内に居る客等の身なりや態度もそうさせている。「私」が吐き気を抱えながらコーヒーを飲んだあと、給士女にレコードをかけてもらったときの内容である。

ーー

私は、ここに出てくるジャズに対しては、こういった感覚はないが、テンポの速いロックのドラムやテクノ、和太鼓の音にこの文章と同じ感覚がある。

音楽の音が現れた先から、次々に音が失くなっていき、同時に自分の中のモヤモヤしたモノも一緒に消失させてくれる。
自分の空間を割いて、音楽が自分の中に「有る」ものを持ち去って行ってくれるのだ。

この<吐き気>は私と似た種類のものにも感じるが、まだそこははっきりはしていない。

しかし、私は、この「私」のように吐き気を催したときに音楽を聴いたことがなかった。是非今度試してみようと思う。

J-P・サルトル『嘔吐』は、ノンフィクションでしょうか。分かりませんが、ジャンル的に哲学でもあり、日本でいう「文学」にもなりますね。きっと。

文学は哲学より苦手ですが、吐き気の原因とその共感性を発見していきたいです。







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