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真如、生滅、有情



私自身が欲望の襲来に悩み(自身が欲望に塗れるのではなく、欲望の侵入により吐き気に襲われる悩み)、人間の欲望の根源と訪れ方その在り方などを手探りで模索し確立した内容と同じ研究を仏教がしていた。仏教のこの辺りが私と通じるところでもある。


第七部 ロンチェンパの遺産
 24 サンワ・ニンポ

(有性生殖する生物を例にとると)、卵子と精子の結合が起こり、生命体の形成が始まるやいなや、生命体の内部には「自己」と「他者」を分別する意識が発生する。この瞬間に起こっていることを、如来蔵では「突然どこからともなく汚染が襲来してきて、真如心を覆ってしまう」と表現しているが、要するに真如心とはまったく別の原理が外から突然やってきて、真如心を汚染し、覆ってしまう、と分析する。「別の原理」とは、世界を「自己」と「他者」、「内部」と「外部」に分別する二元的な知性原理が心の中に侵入することで、それによって、「不二(non-dual)」を原理とする原初的知性=真如心は、表面を覆われて見えなくなってしまう
しかし外部からの汚染原理によって表面を覆われたとしても、おおもとの真如心はいささかもそれは有情の心の表層でおこなわれている分別思考の奥で、純粋な活動を続けている。

大乗仏教の任務は、すべての有情の心の内部に隠されているこの真如心を、もういちど表に引き出して、心にもとの輝きを取り戻させることである。そのためには、生命体がたえまなく活動させ続けている二元的思考を停止させ、生滅心に表面を覆われていた心の奥から真如心を浮上させる心の構造変容が必要である。瞑想がそのための重要な手段となる。
「大乘起信論」がこの問題に真正面から取り組んだ。ここでは生き物(意識を持った存在・生命体)の心は「真如」と「生滅」という二側面を持つとされる。

P265、266

・真如は「ありのままの心」として、分別の及ばない場所で、時間によって変化しない永遠の相を保ち続けている。

・これにたいして生滅のほうは、時間にしたがって移ろい変化していく心の相で、差別相をもって多様に散乱していく。

P266

心はつねにこの真知と生滅の二側面をもっており、二側面は不即不離の関係でつながっている。

 一心は一面では不生不滅(無時間的)であるが、現実に凡夫の心は生滅心(時間的)となっている。この心の生滅すなわち時間の世界はどうして起こるかというに、如来蔵によるが故に生美心があるのである。すなわち心の本性は真知であるが、しかし現実にはその真如は煩悩に覆われている。この煩悩に覆われている真心を「如来蔵」と名づる。如来蔵は真如と別のものではないが、しかし法身・仏智が煩悩に覆われてその智慧の光が現われていない。これが凡夫における自性清浄心の現実の相である。

P266、267

全ての欲は、真如(ほんとうの自分)に蓋をする。
真如(潜在的自分)が見えなくなってしまう。
顕在意識(現在の自分)にある、欲を滅すると、潜在的自分(過去の自分)にも欲があることがわかる。これも自我のうちだが、過去の自分も自分として、その欲望(輪廻の因果)を滅することにより、輪廻を切断したニルヴァーナとなる。

まだ、潜在意識に欲があるという文書を見たことがない。顕在意識の欲と感情(ここでいう「生滅」という時間のあるもの)を消去したときに、潜在意識にも欲があると気付いた。

私は自他を分けることはしないが、
自他の持つ欲は分別の対象となる。

またここに、真如心を浮かび上がらせる心の構造変容が必要で、それには「瞑想」が重要とあるが、正しい瞑想を行わなければ意味はない。
ありのままの自分を見つめて、その正しさを自分で問い、その在り方を考え、正していかなければ、真如は一生浮かばれない。


 人間の「真如心」では、この五種類のスペクトルに分解する原初的知性が、キルコルの構造にしたがって組織されている。五種類の原初的知性は人間が直面する問題の位相にしたがって、つぎつぎと配置を変えていく。直面しているテーマにとって、「鏡のような原初的知性(大円鏡智)」の働きにフォーカスが当てられているときには、そのイェシェが中心に置かれて、他の四つの原初的知性を自分のまわりに配置することによって、その問題に対処することができる。五種類の原初的知性はその意味で、たがいに「対称的」な関係にあると言える。中心を置き換えても全体が配置を変化させることによって、全体の知性の働きは不変だからである。

キル(中心)、コル(周縁) 。曼荼羅をキルコルと呼んでいた 
イェシェ(原初的知性)
P278

 「真如心」を構成するこの五種類の原初的知性は、その働きの内部に「自己」が発生し分別的思考が始まるやいなや、「生滅心」ないし「妄想心」への「下落」を起こす。ゾクチェンが説いているように、真知心と生滅心はもともと別物ではなく、一体であるからである。真如心に「忽然とあらわれた塵が覆い被さる」ことによって、高エネルギー状態にある原初的知性は「対称性の崩壊」を起こして、低エネルギー状態の生滅心に変化を起こすのである。

P278

五種類の原初的知性

①リクパの中心部から真っ直ぐに放出される原初的知性、ここではまだ潜在状態。あらゆる可能性に向かって開かれる。

②この可能性が、四つのスペクトルに分解して四方に広がっていく。知性自体が自分を見て自分を知る。自分とは異なるが同一でもあるという二次的な反射像を自分の前に発見する。

③有情の知性に「経験」が開始される。「自同性」「同一性」の認識《ある》。

④《ある》という同一なるのもは無限に異なる相貌をもって現象してくる「差異性の認識」。有情には世界のマッピングが可能になる。これを通して望ましい領域を選択することが出来る。

⑤法身に内蔵されている完全な意味情報を実現に向かわせるには志向的な構造が必要。(全体性への配慮、強い利他性)

煩悩の毒に侵された有情。原初的知性が情動に変化して人間の心の基礎材をつくりなす。五種類の知性に対して五種類の情動が発生する。

P278

五種類の情動

法界を充たす原初的知性(法界体性智)
愚かさ(鈍)の情動

鏡のような原初的知性(大円鏡智)
怒り (瞋)の情動

同じであることを知る原初的知性(平等性智)
尊大さの情動

差異を認識する原初的知性(妙觀察智)
執着(痴)の情動

課題達成する原初的知性(成所作智)
嫉妬の情動

P279

 このとき心の内部で「対称性の破れ」が起こるのである。高エネルギー状態にある原初的知性の内部では、完全な対称性が保たれていた。ところがそれが低エネルギー状態の情動レベルに下落すると、対称性が破れて、情動はおたがいの間の自由な交換ができなくなって、具体的感情となって発露するようになる。

 情動のレベルでは原初的知性のレベルにおけるような対称性は失われている。しかしそれぞれの情動は、原初的知性の直接的に変化した顔落形であるために、心的構造の中で全体の統一を保ち続けることになる。破れた対称性を補うように、「擬似対称性」が生物の心の原始的レベルではキルコル状の秩序を保つのである。

P279

情動、感情とは、真如心に被さったもの「生滅」による対称性の破れ。対称性を失ったことにより、①〜⑤の情動が発生する。

ゾクチェンでは、心とは何かを知り抜くことによって、はじめて人は心(セム)から真の解放に至ると考えた。
前回取り上げたように、「なにも拒否せずなにも受け入れず、まわりに出現するもののすべてをありのままに楽しんで生きる」ことの重要さが説かれている。

欲の襲来はどうしたら良いのか。それでも拒否できるときとそうでないとき、受け入れずに済む場合もあり、極力意識を繋げないよう心がけています。

ここで、知性が変容するということがわかり、情動とは真如が生滅に変容した姿ということを初めて知りました。
これまで、わからなかった、知らずにいた人間の理や構造が理解できると面白いです。




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