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『嘔吐』は、もしかして喜劇かもしれないという気づき


シャルル、お願い。あんたに言ったこと、わかってくれるわね。シャルル、帰ってきて。もうたくさんよ。あたしはあんまり不幸だわ」

女に触れることができるほど、その近くを私は通った。これは・・・・・・しかし、どうして火のようなこのからだを、光のように苦悩を放射しているこのを、それと信じることができようか・・・・・・しかしながら私は、肩掛けに、外套に、右手赤紫いろの大きなに見覚えがあった。

これはあの女だ、リュシーだ、家政婦のリュシーだ。─── ─── ─── ───
─── ───、、、(……)

───私は、ここ三年来あまりにも平穏すぎる。私には、この悲劇的な人気のない場所から、内容空疎な少しばかりの純粋さ以外にはもうなにひとつ受けとることはできない。私は立去ろう

P46

解説:
シャルルに見捨てられそうなリューシーを語る叙述、リューシーを形容するたっぷりな抒情表現、きっと悲劇はリューシーが家政婦だったことだろう。
「私」はリューシーと顔見知りだが、それどころではないリューシーに声をかけようか否か、今起こっている劇的な苦悩は日常レベルの苦悩に鎮火するだろうと、「私」は、「助けない」を心の中で正当化している。そして、「私は立ち去ろう」という結末は、それまで劇的でありながらも淡々とした展開の数々の付箋を、簡単に裏切る。(太字は名場面)

さよならはあなたから言ったそれなのに頬を濡らしてしまうのぉ そうやって互いのことも消してしまうんだねもういいよ 笑って 

愛を謳っ謳っ雲の上
恋と飾っ飾っ静かな方へ
(太字部分苦しい)


───シャマード街とシュスペダール街との入口には、古い鎖が車の出入を遮っている。犬を散歩させにきた黒服の婦人たちが、壁に沿って拱廊の下を通って行く。彼女たちは陽当りのよい場所には滅多に行かないが、娘のような流し眼をこっそりと満足げに、ギュスターヴ・アンペトラーの銅像に注ぐ。彼女たちがこのブロンズの巨人の名を知っているはずはないが、フロックコートとシルクハットとによって、この男が上流社会に属していただれかであることを悟るのである。銅像は左手に帽子を持ち、右手を二つ折判の本の山の上に置いている。自分たちのおじいさんが、青銅で鋳造されて、この台の上に立っているかのような感じがいくらかする。あらゆる問題について、彼が自分たちと同じように、ほとんど同じように考えていることを知るために、長い間銅像を眺める必要はない。

P47

解説:
犬を散歩させに来た黒服の婦人たちが、そのブロンズの巨人を見て、フロックコートとシルクハットとによって、この男が上流社会に属していただれかであることを悟る蓋然性は「悟るのである」と断定するほどのものではないように思われる。

 恐らく一八〇〇年ごろには、薔薇いろの煉瓦と広場の周りの建造物とによって、この広場は明るい感じであっただろう。しかしいまは、酷薄で不快ななにものかを感じさせる場所となり、恐怖感の鋭い針がある。それは向うの男、台の上に立っている男からくるのだ。あの大学人を青銅の鋳型に流し込んだところ、魔法使が出来上ってしまった。

P48


解説:
「薔薇色の煉瓦と広場」という表記はこの日の日記で二度使われているのである。
きっと、彼が型に流し込まれ鋳造されている場面も、犬の散歩をさせに来た黒服の婦人たちの脳裏に思い浮かぶことはないだろう。ブロンズの巨人が、昔、自分たちと同じ問題を抱えていたことも、魔法使いとして出来上がったことさえ…。

『嘔吐』は文学であり、哲学であり、文芸であり、悲劇の芸術作品であり、もしかして喜劇なのかもしれないと私はようやく気づいた。淡々と、且つ、しれっと日記形式で、オールジャンルをぶち込んでいる。素晴らしい!

全てを喜劇に出来る技術は、
全ての学問を超える。という持論。
確実に、筆者は天空にいる存在だ。
文章表現はツァラトゥストラより、
こちらの方が私は好む。

「どうでもよい性」が私と似ている。

サルトルの魅力が押し寄せる。

まだどんな嘔吐性なのかわかりませんが、
出逢いますね、






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