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全ては人間の體に在る。止観と止揚の結末は悦びの「無」となる。実存主義→リアル成所作智。…

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全ては人間の體に在る。止観と止揚の結末は悦びの「無」となる。実存主義→リアル成所作智。治療家。

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与えられた「項」の豊かさからの超越。 『無の悦び』

    • 原初知性が映し出すゲシュタルト

      …というと妙にカッコいいが、 以前から前頭葉に観えている団子三兄弟のことなのだ。 潜在意識のタンクと宇宙に繋がる管がなくなり、半年以上経つが、頭の周辺を彷徨いていた潜在意識は今右端に位置している。 心も、縦になったり横になったり伸びたり縮んだりしていた線が、丸く真ん中に収まっている。 真空もはっきりした白い縁のある黒丸だったが、真っ黒くろすけ様に左端にある。 多分、私の状態を顕現されているのだと思うが、意味を捉えてみても、どう参考にしたらいいのかわからず、形は変容する

      • 『極限の思想 サルトル』-それでないものでありそれであるものではないという必然性-

        毎日重要な場面が続く。 今日もサルトルです。  「意識」に対して独自で追求してきた私は誰よりも意識に精通していると思っていた。サルトルと私の差は言い回しの語彙力と言葉の選択かもしれないが、一方そういった見かたや見解もあるのだと改めて頷けることが多い。 未だ、神、善、悪、欲、知識、知恵、、という単語が出てこないのは、敢えて禁忌縛りをしているのかとさえ勘ぐってしまう。もしかして独自の禁忌ワードが設定されているゆえに哲学はややこしいのかもしれない。 まぁ、しかし、面白い。 面

        • 『極限の思想 サルトル』-意識しての対自は「一箇の存在減圧」…それは…相殺-

           今日もサルトルである。  本書は、自分とは違うとか、それはどうかと思う…などの差異がない。容認できる範囲というものも自分には存在するが、その幅の内側という意味ではなく、完全に同じなのである。哲学的表現は詳細過ぎるが、その詳細でさえ私の正しさや感覚するものと照合出来る。どストライクなのだ。 本を読むとは、重要な文章を逃さず吟味する、自分との対峙(対自)である。自他の正しさを筆頭に差異を見つけて対自していく。  本書に於いての対自は、自分の想いの発生からそれを意識し、その

        与えられた「項」の豊かさからの超越。 『無の悦び』

        • 原初知性が映し出すゲシュタルト

        • 『極限の思想 サルトル』-それでないものでありそれであるものではないという必然性-

        • 『極限の思想 サルトル』-意識しての対自は「一箇の存在減圧」…それは…相殺-

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          『極限の思想 サルトル』-身体とは私の偶然性の必然性がとる偶然的な形態-

          哲学者とはそこまで考えるものなの?と以前より感じていた。それは今でも変わりはないが、自分の志向と性質が似ていると食い入るように咀嚼しまくり、味わいがより深くなってくる。 些細な(ある意味重要な)コトの一面をそこまでバラバラにするのかと。。繋いだだけの棒のような線だったものが立体構造となる驚きである。 面白い! 大変インタレスティングである。 これまで「偶然という必然」の連続が人生だと、ざっくり思っていただけだった。 確かに「対自」において、「この私」という偶然が必然的

          『極限の思想 サルトル』-身体とは私の偶然性の必然性がとる偶然的な形態-

          認識が全てで、無知は罪だが、曖昧な認識に付け込み、欺き、騙す方が罪は重いし、重くなければならない。 過去の書き換えとは、未来における別認識の重なりと重さ。 「過去にかかる未来の蹂躙」 未来とは罪の連続。

          認識が全てで、無知は罪だが、曖昧な認識に付け込み、欺き、騙す方が罪は重いし、重くなければならない。 過去の書き換えとは、未来における別認識の重なりと重さ。 「過去にかかる未来の蹂躙」 未来とは罪の連続。

          有情に興味の無い理由…幾らでも創り出すことが出来る虚構だから。 何故「有情」が創り出されるか、それが意図的であれ故意であれ無意識のうちであっても、それは全て「自己欺瞞」とわかっている。 要は、自作自演。 突然、哲学が好きになったワケでもなく、 これは「自分性」の追求なのだ。

          有情に興味の無い理由…幾らでも創り出すことが出来る虚構だから。 何故「有情」が創り出されるか、それが意図的であれ故意であれ無意識のうちであっても、それは全て「自己欺瞞」とわかっている。 要は、自作自演。 突然、哲学が好きになったワケでもなく、 これは「自分性」の追求なのだ。

          『極限の思想 サルトル』-自己欺瞞とは非定立的に欺かれる側のかたわらに居合わせているだけ-

          『嘔吐』よりこちらの方を先行して読んでしまうのは、小説は物語である以上、ノンフィクションであっても虚構であり、人間と人間の交差する場面の面白さは、所謂他者から見た「劇」であり、一人の(又は多数の)人物の動きというものに、私は興味がない。 リアルのそれには興味はあるが、メディア媒体(本、映画、ドラマ)としての他である人間のストーリーには全く興味がなく、 私が興味を抱くのは本質や真理で、その構造や概念を知りたいとおもうが、それであってもただ自分の経験である実存事実と他とのそれ

          『極限の思想 サルトル』-自己欺瞞とは非定立的に欺かれる側のかたわらに居合わせているだけ-

          『極限の思想 サルトル』 -意識に内部は存在しない 意識の内側は端的に無である-

          「あらぬものは、あるものにおとらずある」 「原子は充実したものであり、充実したものは空虚のうちに存在して、空虚の中で運動する」 一般にも、見えないものは見えるものより多く存在すると言われているが、それは何か?と、思考しなければ、真に理解することはない。 見えるものによって充実して満たされていると見えないものが錯覚を起こして充実していると勘違いしている。 そして、自と他を比較して少しでも何かが欠けていると(こちらも幻想)、「〜がない」と言い出すのだ。それがここでいう「空

          『極限の思想 サルトル』 -意識に内部は存在しない 意識の内側は端的に無である-

          神が私達に残した余興は、 ジグソーパズルを組み立てること。 神自身がそうであるように。

          神が私達に残した余興は、 ジグソーパズルを組み立てること。 神自身がそうであるように。

          ニーチェは全ての肯定と言ったが、私が思う所サルトルは全ての否定となるが。。どちらが正しいとか言いたいのではなく、結末までに同じ場所で何度か出会う気がする。し、性質の違いというだけではないかと思う。

          ニーチェは全ての肯定と言ったが、私が思う所サルトルは全ての否定となるが。。どちらが正しいとか言いたいのではなく、結末までに同じ場所で何度か出会う気がする。し、性質の違いというだけではないかと思う。

          誕プレはコレがいいと娘のためにポチるが決定までに結構勇気がいった。 『シュペーア ヒトラーの建築家』 マーティン・キッチン著 5/31配本 650ページ 8,580円  https://x.com/hakusuisha/status/1793533469877993627?s=46&t=DmPFEwfkfrjbjvMBEPjwOw

          誕プレはコレがいいと娘のためにポチるが決定までに結構勇気がいった。 『シュペーア ヒトラーの建築家』 マーティン・キッチン著 5/31配本 650ページ 8,580円  https://x.com/hakusuisha/status/1793533469877993627?s=46&t=DmPFEwfkfrjbjvMBEPjwOw

          そう、今は触れられても平気だ。勝手に相殺させるスキルが身についた。し、意識はココにはない。入って来る人間界の有情に苛まれることはない。 真如が覚醒した者だけが辿り着ける場所がある。わかる者なら探せばわかる。光が届かない此の場所に徐々に意識が集まって来ている。

          そう、今は触れられても平気だ。勝手に相殺させるスキルが身についた。し、意識はココにはない。入って来る人間界の有情に苛まれることはない。 真如が覚醒した者だけが辿り着ける場所がある。わかる者なら探せばわかる。光が届かない此の場所に徐々に意識が集まって来ている。

          『極限の思想 サルトル』より -懐疑は存在を否定して無を分泌する-

          その言葉が聞きたかった! おお!サルトル、あなたはそうであると思っていた! 私にとっての仲間を見つけた! 乗っかる権威を見つけた! ツァラトゥストラ以来の歓喜である! (言い回しが下手くそな私の言葉では、何かに乗っかり代弁してもらわなければ、誰もそうだと思ってくれないのだ) サルトルは真理に到達していると言葉によってそれがわかる。真理とは秩序ある「無」。 此処にある、「孤立化」という言葉は寂しさと孤独を伴い、信頼できるものがない状態と思われがちだが、懐疑心からの「無」は

          『極限の思想 サルトル』より -懐疑は存在を否定して無を分泌する-

          交差とは「有」なのか「無」なのか。 絡まるのか、打ち消されるのか。

          交差とは「有」なのか「無」なのか。 絡まるのか、打ち消されるのか。

          五智如来

          精神の考古学でも触れたが、仏教の五智をもう一度見直していたら、今度は仏教が面白くなってしまった。 人間の真如に携わっている「5つの知恵」(原初知性)だが、なぜ如来像(偶像)となり崇められているのか随分前から気になっていた。 如来像は「知恵」だけではとどまらず、体にまつわる医学的なものは「薬師如来」、真理に到達した、大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来、、彼らは実存していていたのかわからないが、「中尊」として、如来像(仏像)となっている。 調べてみると、五仏の如来像には置かれてい

          五智如来