人生の分岐点

人生で分岐点なるものが幾つかあるとしたら、そのうちの一つは、慶応高校で3年間続けたラクロスを慶応大学で継続しなかった事だ。

正確に言うと、大学1〜2年生の間は、ラクロスを辞め、テニスやらビリヤードやらいわゆるサークル活動をして、大学3年生からラクロス部に戻ったのだが。それはイバラの道だった。

ラクロスというスポーツを知らない方の為に少し説明を加えると。(詳細知りたい方は以下のpdfを見てほしいが)

https://www.lacrosse.gr.jp/pdf/association/current_status_outline_lacrosse.pdf

ラクロスというスポーツは、カナダの先住民たちが戦闘意識を高める訓練としてやっていた儀式?を起源としていて、アメリカ・カナダでは小学校の授業でやるくらいポピュラーなスポーツ。プロリーグまである。

日本では慶應義塾大学が1986年にラクロス部を設立したのが最初で、その後日本ラクロス協会を立ち上げ、徐々に日本でも広まり、2024年現在では男子女子合わせて14000人近いプレーヤーがいる。ただし、高校でラクロス部があるのが、男子では慶応と早稲田くらいなので、カレッジスポーツとして大学から始める人が多い。

慶応はラクロスを日本に持ってきた歴史的背景から、大学だけでなく高校からラクロス部があること、そして高校にもかかわらず、1校だけ大学リーグに混じってプレーしていることが、慶応大学を強くしている大きな要因の一つ。(ラクロスリーグは1部から3部まであって、大学はもちろん1部リーグ、高校は2部か3部を行き来していた)

慶応大学はその日本一位の座を死守するために、(慶応大学生が慶応高校のコーチをして)慶応高校のラクロス部の教育にも力を入れていたし、慶応高校でプレーしていた主要メンバーのほとんどは、大学でも継続することが当たり前。

私も当然大学の先輩から部活に勧誘されたが、断った。

なぜ断ったのかの理由の一つは明確に覚えている。楽しくなさそうと思ったからだ。(他にも「大学くらいは遊びたい」とか色々理由はあった気がする)

1部リーグで日本一の大学と、2〜3部で戦ってる高校生では、戦う意識やレベルも全然違う。

例えばシュート一つとっても、高校感覚だと、いい流れでオフェンスが出来ていて、いい感じシュートが打てれば、OKとされる場面でも、慶応大学では、「◯◯〜何外してんだ!そこで決めなきゃ駄目だろ!あとで罰走な!」と、どやされるくらい求めるレベルがめちゃくちゃ高かった。

高校生の私はそういったプロ意識的なものは一切なく、楽しくスポーツしたい学生だったので、それを見て、大学ではラクロス続けたくないな〜と思ってしまったのだ。

ただ、大学に入ってテニスやらビリヤードやらサークルをプラプラ渡り歩くも、なんかシックリするところが無く、何となく所属していた法律サークル(一応法学部だったので入っておくとテスト対策とか楽だった)で、仲間を見つけて遊んでいたものの。大学3年くらいになるとそのサークルのメンバーも法律家になるためにダブルスクール(法律家になるための塾)とかして一緒に遊べなくなったので。

就活にも有利と聞くし、(一応高校の時は、大学生にも負けないくらいオフェンスに自信があったので)ギリギリ3年生から戻れば、何とか試合に出れるようになるかもしれない、という甘い考えをもって大学ラクロス部に復帰した。

結論から言うと、大学3〜4年生のそのラクロス部時代は色んな意味で暗黒時代だった。
・まず1軍で試合に出られることはほぼ皆無だった。前述したように、日本一の大学と遊び感覚の高校生では、あらゆるもののレベルが違う。身体の鍛え方、シュートやパスの精度、戦術、自身のチームのデータ分析、相手チームのスカウティング、一人ひとりが試合に出るための武器の持ち方、そして試合に出られなかったとしても、チームに自分は何を貢献するんだ、という意識。高校時代ちょっと上手かったレベルでは適わないのだ。
・また(これが正直応えたのだけど)上手くチームメートとも馴染めなかった。これは勝手な被害妄想もあるかもしれないが、「大学3年になって何今更戻ってきてんだよ」的な雰囲気もあった気がするし、大学の体育会という濃い2年間を過ごしてきたチームに、ポッと入るのは、高校時代から続けているチームメイトがいるとはいえ、難しかった。(自分のコミュニケーション能力が低かっただけかもしれない。苦笑)
・そして大学3年〜4年で行う就職活動に苦労し、プレー出来ない期間が長かったことも大きい。慶応の体育会とはいえ、その下積み時代を経験していないことは、就活の自己アピールにおいてむしろ裏目に出るし、何より当時やりたいことが明確に無くて、志望動機作成にも苦労した。加えて、体育会ならでは、というか、皆先輩方がいく会社が一部上場企業ばっかりなので、業界関係なく上位3社くらい受けるという阿呆な就職活動をして、本当に苦労した。

まぁそんなこんなで、体育会ラクロス部の大学3〜4年生時代は、ラクロスというプレー面でも、就活でも、自信を失い、精神的にキツかったなーという思い出が多い。

だからこそ、冒頭「人生の分岐点」と書いたように、そのまま高校から大学までラクロスを続けていれば全然違う大学ライフと就職結果が待っていただろう、というタラレバの後悔にも似た思いはある。

もしラクロスを続けていたら、日本一を目指して個人的にも身体をトレーニングしていただろうし、チームとして、戦術や強化プランも考えていたと思う。学生時代にそうした主体的にチームを作り上げる経験が出来たとしたら、ひょっとすると仕事面でも早くから主体的に考え動き、出世も早かったかもしれない。

まぁ人生後悔ばかりしてもしょうがない。笑

逆に言えば、40になるまで泣かず飛ばずの状況だったからこそ、自分の人生を大きくシフトチェンジしたいと思ったし、子どもたちにはどのような教育環境を創れば、早くからもっと主体的に人生のオーナーシップを持って生きられるのだろう?と考え、それを実践するためにPTA活動をする事に繋がったし、そうした教育に悩みをもつ同世代や下の代の親たちに、何を発信したり、課題解決の仕組みを作ったり出来るのたろう、と日々考えて、ちょっとずつインプットとアウトプットを繰り返している。

また大学3年から戻ったからこそ、この下の彼のような面白い挑戦をしている人にも再会出来たし。今後もそういった繋がりが広がることはあるかもしれない。

慶応の体育会で日本一を目指していた優秀な仲間だからこそ、各方面できっと活躍してるのだろう、と思う。

私が教育分野でやりたいことの一つは、社会で(出世競争に勝つという意味ではなく)活躍し、面白がって自分の人生を生きている大人と子どもたちを繋げることで。

子どもたちが、そうした面白い大人を見て、「俺もあーなりたいなー」と思えたり、ちょっと人生迷ったときに「あの人に相談したいな〜」という関係性を築けたら、ステキだなぁと思うので。

地域のボランティア通じたコミュニティ作りや、これまでの自分の友人関係は、Facebook等を通じて薄く広く繋がりつつ。面白そうな人には自分からアポとって会いに行きたいと思う。

GWも中盤に入り。
妻の実家別荘にて、子どもたちの遊び相手をしつつ、空き時間でPTA資料を作っている。

保護者にとって、学校にとって、地域にとって、(それぞれの課題を解決することに繋がるような)必要なPTA像を描く。

それでいて、「ミニマムな運営体制」で、「多くの保護者が好きなタイミングで好きな分だけ手伝える」、そうした活動を通じて、「保護者同士のコミュニティや地域のコミュニティが自然発生的に生まれる」、それが最終的に、多くの地域の大人が子どもたちと接点をもって、「地域で子育てをするような場所」にしていきたい。理想はあるけど、それをどう具現化していくか悩む。

GW明けの5/中には、4月から赴任された新校長にPTA活動のプレゼンがある。

あーそろそろギア上げて準備せねば。

頑張るぞ。

以上







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