3ヶ月だけ一緒に過ごした"あの子"の話 | 流産体験記
こんにちは、みつまめです。
今回は、流産した経験をテーマに書きます。
私は長男よりも前、初めての妊娠で流産を経験しています。
なぜ10年も前の事を書こうと思ったのか、自分でもよく分かっていません。
身近に起きた出来事について考えていたら、突然何かが1つの線で繋がって、記憶の扉が開いた感じで。
RPGとかでよくある、なんかレリーフとか掘ってある重そうな石の扉がゴゴゴ…と開いた感じ。
記憶の扉が開いたかとおもったら、「そういえば"あの子"の事を書きたい、今書かなくちゃいけない気がする」と、突然思ったんです。
この間数秒。洗濯物を室内干ししている、何とも謎すぎるタイミング。
私の内世界、生活感とRPG感が入り交じってるなぁ。苦笑
扉のなかを覗き込み、出てきたことをせっせと思いだし、あまりに生々しく甦ってきて途中しんどくなりつつも、書きたい気持ちだけで何とか書き上げました。
特に感動的なオチもなく、私が経験した古い話をただ書き起こした内容です。
不妊治療中だったり、ナーバスになっている時期だったり、この手の話題が苦手な方は、どうか回れ右をしてください。
何となく引っかかる、嫌な感じがする…と思った方はご自身の直感に従うのが吉。
無理して読むような話でもないです。
ご興味がある方はどうぞ進んでください。
できるだけ生々しくならないよう気を付けたつもりではいますが、予想以上に鮮明に思い出してしまい、どうしても上手い表現ができなかった部分があります。
お馴染みさんはもしかすると読んでくださるかもしれないのですが、いつも以上に長く、文章も乱れていて読みづらいと思います。
そしていつもと毛色の違う内容でもあります。
もし苦手でなければお付き合いください。
流産とは何か
流産とはどんな状態を言うのか、まずは医学的な定義を確認したいと思います。
妊娠検査薬で陽性が出たけど、その後生理が来てしまった、というのを「化学流産」といいます。
「妊娠した女性の約40%が流産」は随分多いと感じますが、恐らくこの化学流産も含めて40%なのかな、と思います。
病院などで妊娠が確認されたけど、12週未満で心拍が止まったり成長が止まったりすることを「早期流産」と言います。
上記にもあるように、流産のうち8割以上が早期流産です。
私が経験した流産も、この早期流産に該当します。
初めて妊娠するまで
結婚式、新婚旅行と結婚関連のイベントも無事に終わり、そろそろ妊活する?となったのが結婚して半年ほど経った頃でした。
夫も私も子どもは欲しいと思っていて、さらに2人共通の目標が「子どもが独立したら夫婦で旅行に行きまくる」なので、子どもは早めに授かれたら良いよね、という話をしていました。
PMSと生理痛の治療で婦人科に通っていた時期もあり、基礎体温や生理のメカニズムについてはそこそこ知識がありました。
さらに当時から情報収集が得意(悪く言えば検索魔)で、不妊治療のあれこれも一通り調べ上げていました。
まずはベタに基礎体温を計り、ある程度検討をつけつつ「数打ちゃ当たる」方式を採用。
生理不順だし、もしかすると病院に行った方が良いかかもしれないな…と漠然と考え始めた頃に妊娠が分かりました。
今は不妊治療や不育症治療をしていた人が身近にいるので、半年程度で授かるってかなり早いし順調だったんだな、と思います。
陽性反応。そして病院へ
妊娠が分かったのが12月半ば頃。
休日出勤の帰り道。乗換駅のドラッグストアで検査薬を買い、早る気持ちを抑えながら帰宅。
自宅で試したら、陽性反応が。
「本当にいるの?」が最初の感想でした。
その後じわじわと喜びは沸いてきたものの、心のどこかでうっすら疑っていました。笑
あまり早く受診しても心拍の確認が出来ず、結局何回も行くことになるのを知っていたので、病院が年末休みに入る直前のタイミングまで待って受診。
受診したら尿検査だけで、案外あっさりと妊娠判定となりました。
ただ、この時のエコーで胎嚢確認はできたものの心拍確認が出来ず。
自分での計算だと6週目くらいの筈なのですが、4~5週目くらいの大きさ、と言われました。
あれ?と思いつつ、年始に再受診する事になりました。
つわりはあまりなく、今日食べ過ぎちゃったっけ?ていどのうっすらとした吐き気と、異様に匂いに敏感になった程度でした。
会社の納会やら、年始の親戚の集まりは「妊活始めようと思って、お酒控えてるんです」で何とか乗り切りました。
実母と、夫のお母さんにだけ、妊娠している事を伝えました。
心拍確認が出来ない
さすがに心拍確認できるよね?と思っていた、年明けすぐの受診。
週数にすると7週目の後半でした。
しかしこの時も心拍の確認ができず。先生のちょっと考えているような声がして、心臓がぎゅっとなりました。
その後診察室に再度呼ばれ、もしかすると…の説明がありました。
まだ7週目なので、来週になれば心拍確認できる可能性がある。また来週来てほしい。
もし来週確認できない場合は、赤ちゃんが上手く育っていない可能性がある。
来週の受診までに出血した場合は、すぐに受診してほしい。もし血のかたまりなどが出てきた場合は、可能であればもってきて欲しい。
先生はとても優しい言い方をしてくれました。
でも検索魔な私は、7週目で心拍確認が出来ないというのはどういう事か分かっていました。
まだ可能性があると思うべきなのか。
本当に流産だった場合のショックに備えて、心の準備をしておくべきなのか。
とにかく動揺しながら産婦人科を後にしたのを覚えています。
その日は土曜日。
当時夫は土日祝は基本的に仕事。私は1人でした。
夫が仕事中様子を見に家に寄ってくれましたが、ずっと泣いていました。
もしかするとまだ可能性がある、という方が気持ちの置き所を決めきれない感じがしてかえって辛くて。
私と同じ時期に結婚し、流産経験のある友人がいたので、友人にだけは電話して話を聞いてもらいました。
友人だったとしても、私がいきなり電話をすることはまずないので、本当に辛くて、動揺していたのだと思います。
出血が始まる
受診して数日後の夜。生理のような出血が始まりました。
翌日は平日。仕事は休みを貰いました。
職場にまだ妊娠は伝えていなかったのですが、もしかしたら数日休まなければならないのかも…と思い休みをもらうとき上司に事情を話しました。
(当時の上司、ビックリさせて申し訳なかったな…)
痛みは軽い生理痛くらいだけど、一応無理はしない方が良いのかな、と悩んだ末、タクシーで病院へ向かいました。
重たい雲が空を覆い、小雪がちらつく寒い日でした。
そしてその日のエコーで、何と心拍が確認できました。
黒と灰色のモニターに光る、小さな白い点。
私に「生きてるよ」って言ってる。
もう亡くなっているんだとばかり思っていたけど、頑張って生きているんだ。
涙が溢れました。
ただ、先生は出血量と、モニターを見てかなり渋い顔。
伝えられた内容は、前回の内容とはうって変わって大分厳しいものでした。
心拍は確認出来たけど、出血量が多いし、赤ちゃんの袋(胎嚢)の形が潰れてきていて、しかもだいぶ下りてきている。
この状況で安静にしたとしても、流れてしまう可能性が高い。
とはいえまだ頑張ってくれているので、出血が止まるなら持ちこたえるかも。
いずれにしてもまた数日後に受診という事になり、漢方薬も出してくれました。
(多分先生は流れてしまうと思っていて、漢方はきっと気休めだったんだろうな…)
今度は心拍が確認できた嬉しさと、先生の厳しい見立てに気持ちの置き所が分からず。
また辛い気持ちで病院を後にしました。
"あの子"と対面した日
安静にしてもあまり関係はないと言われたし、家にいてもただ落ち込むだけだからと翌日からは普通に出社し、仕事をしていました。
出血量は変わらず、生理の出血程度。
少しずつ鮮血に変わってきたものの、痛みも軽い生理痛程度のままでした。
当時私は外勤、内勤を日によって交互に繰り返す勤務形態でした。
外勤だったその日は、いつも通り自宅から営業先に直行していました。
何件かの訪問を終え、その日最後の営業先へ向かうために電車に乗った夕方頃。
電車が発車した後に突然、生理痛が激しくなったような痛みと、腰を内側から鈍器で殴られているような痛みに襲われました。
あれ?と思っているうちに痛みがどんどん強くなっていきました。
降りた方が良いかな、と思った時にはもう痛みで動けず。
電車に乗ったまま、意識が遠のきそうになったりしつつ何とか堪えていました。
痛みはどんどん強くなり、痛みがピークに達した頃に何かがズルっと出たような感覚があり、突然激しい痛みがなくなりました。
あまりにも突然痛みがなくなって、目の前の視界が急に開けたような、スッキリしたような、妙に高揚してくるような、不思議な気持ちになりました。
目的の駅についたので、駅ビルのトイレに直行。
トイレに入ると、経血の香りとは違う不思議な香りの液体がどっと出て、それと一緒に鶏卵くらいのサイズの、レバーのようなものがナプキンにゴロっと出てきました。
直感的に「これはもしかして、自然流産というよりも出産だったのかもしれない」と感じました。
対面した瞬間は悲しみや恐怖よりも、どちらかというとやや興奮状態で、妙に感動しているというか、形容しがたい妙な気持ちでした
「流産ではあるけど、この子は出産という形を取ってくれたんだ」
「どこも崩れることなく、きれいな形で出てきて、私に姿を見せてくれたんだ」
「わずかな時間でもちゃんと私の中で生きていたんだって、夫にも見せてあげられる」
小振りなジップバッグに、形を壊さないよう柔らかくペーパーで包み、さらに外から見えないようにハンカチに包み、バッグに入れて持ち帰りました。
その日は普通に営業先を回って帰社。
上司には翌日の休みをお願いしに行きました。
(何て言ったかは覚えていないのだけど、奥様が初期に切迫流産で…と励ましてくださったのは覚えてます。この時はもう流れてしまっていたから、励ましにあまり意味はないのだけど。優しい上司だったなぁ。)
しかし流産した日に早退もせず、普通に定時まで仕事して帰った自分が信じられない。
骨の髄まで社畜ですね…大丈夫か20代半ばの自分。
"あの子"とのお別れ
"あの子"と対面した日。
帰宅後に一応夫にも「見る?」と確認したような記憶はあるのですが、具体的にはよく覚えていません。
(実際に見せたのではなくて、図に描いて説明したんだったかな?)
その後、寝室の棚の上にタオルを敷いて、ジップバックごと寝かせるような感じで置いたような気がします。
端から見ればレバーのようなただの塊なのですが、私にとっては、初めて私のところに来てくれた大切な子どもでした。
本当は塊の中に"あの子"はいたはずなのですが、さすがに中身は見てはいけないような気がして、確かめられませんでした。
明日になったらお別れしなきゃいけないんだ。今夜は出来るだけ近くで一緒にいたい、と寂しく、離れがたい気持ちでいました。
翌日は真冬らしい、よく晴れて寒い日。
別れを惜しむように、ゆっくり歩いて病院へと向かいました。
診察室で"あの子"を渡しました。
週数としては12週目での流産なので、多分上手く育つ事の出来ない受精卵を妊娠したのであって、健康な人にも、どんなに気を付けていても起きることだと説明を受けました。
そして「大きさでいうと、おそらく8週目くらいで成長が止まってしまったようだ」とも教えてもらいました。
私が見ることのできた心拍は、おそらく最期に近い頃のものだったようです。
"あの子"は検査をしてもらい、何が原因なのかを調べてもらうことになりました。
(結果は後日分かり、先生の説明通り受精卵の遺伝子異常が原因でした)
"あの子"とのお別れ、その後
感情を鈍くして日常を過ごし、たまにふとしたきっかけで思い出しては泣く、というような日を過ごしました。
体調面は問題はなかったのですが、子宮の戻りが悪く、1ヶ月くらいは薬を飲み続けたような記憶があります。
子宮の戻りが悪い、というのも"あの子"と別れた私の未練を突きつけらるような気がして、また悲しくなったりしました。
1ヶ月程度で経過観察は終了となり「次の生理が来たら、妊活再開して大丈夫」と言われたものの、直ぐにはそんな気にはなれませんでした。
次に来てくれるかもしれない子は別の子であって、"あの子"ではないんだ。
私は"あの子"に生きて産まれてほしかったのに、という気持ちが強くありました。
しばらくしてから「"あの子"をきちんと供養してあげたい」という気持ちになり、何回かお寺へ写経に通ったりし、自分なりの供養をしたことで、何となく次に進む気持ちになることが出来ました。
(親が望んでも生きて産まれてこられなかった子も、親が望まず産まれてこられなかった子も、等しく「水子」と呼ばれてしまうのが何となく嫌だなぁと感じたりもしました。
そこを区別するのは宗教的には変な気もしますが、私の率直な感想ですのでお許しください。)
"あの子"は今も私の中に在る
突然思い立って書き始めた今回の記事。
思った以上に鮮明に思い出してしまって、割と辛かったです。
泣きすぎて頭がいたいです。苦笑
それでも私は、"あの子"の事はきちんと覚えているし、きっと一生忘れられないんだと分かって、ほっとしたような気もしています。
私の中に"あの子"の存在はずっとあるんだと、確認できました。
月並みな言葉しか見つからないのですが、命って本当に不思議だし、不条理で。
人間がコントロール出来るような領域ではないんだとつくづく感じます。
もし"あの子"が順調に育って産まれてきたとしたら。
私はもっと命に対して傲慢だった気がします。
自分の理想を子どもに押し付けるような、親も子どもも窮屈な子育てをしていたかもしれません。
そういった意味では、たった3ヶ月でも私のところに"あの子"が来てくれた事に意味はあったのかもしれません。
でも、私は"あの子"に生きて会いたかった、とも思います。
生きて産まれていたらどんな子だったんだろう。
ギリギリの状態でも心拍を見せてくれたり、流産後の処置が必要ない状態で出てきてくれたり、「出産」を経験させてくれたりして、気を遣いすぎるくらいの優しい子だったような気がする。
そして何の根拠もない妄想でしかないのですが、何となく女の子だったような気がしているんです。
でも女の子だったとしたら、やっぱり私は上手く育てられる気がしないので、人間には知り得ない何かの力が働いているんだろうか。
もし"あの子"が産まれていたら、長男と次男には会えていなかったのかな。それはそれで嫌だなぁ。みんな大切な子どもたちだから。
あれこれ考えたところで、IfはIfでしかなくて。
全て私の妄想でしかありません。
"あの子"が教えてくれた命の不思議さや不条理さも。
私は親として、子どもたちの人生を手助けしているだけなんだというということも。
現実を生きる為、そして子育ての軸として、"あの子"の存在と共に忘れないでおきたいです。
最後にお礼と、お願い。
最後までお読み頂いたみなさま。
どんな方がこの記事を最後まで読んでくださるのか、全く見当もつかないまま書き上げました。
不安定な文章で読みづらく、しかもかなり長くてすみませんでした。
ここまで私の思い出話にお付き合い頂きありがとうございます。
もしこの記事を読んで、コメントくださる気になった方がいらっしゃいましたら、お願いしたい事があります。
今回の内容について、もしスピリチュアルな解釈をされる方がいらっしゃいましたら、コメントは出来れば心のうちに留めて頂けるとありがたいです。
注文をつけるようで、申し訳ありません。
当時そういった事を言われて、余計に悲しみを増した経験があって。
今でも多分、この件についてそうしたコメントは受け入れられない気がするのです。
民間信仰や神話の世界、仏教、哲学の話は好きでも「スピリチュアル」に嫌悪感すら抱いてしまうのは、このあたりが原因なんだろうな。
線引きが自分でもよく分からないのですが、この世の不条理や不思議に説明が欲しいし納得したいけど、何らかの力にすがったり、信じることで救われたいとは思っていない。多分そういうことなんだと思います。
そして、"あの子"の件で母から言われた言葉が、かなり深い傷となって残っていることも再認識しました。
こんなに生々しいくらいに記憶が鮮明なのに、肝心なその部分だけ靄がかかったように「思い出せない」のです。
(スピリチュアルなコメントとはまた別の話です。うちの母は現実派なので)
手紙にして、私が傷ついた事や自分の気持ちを書いて渡しましたが、私の中では全然終わっていなかったみたいです。
母と私のことについてはあまり急がずに、また書ける気になったら書いてみようと思います。
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生きづらさ解消に向けての試み
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