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本能寺の変 1582 光秀と信長 3 67 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 3 上洛 

信長は、迎えの使者を派した。

 使者は、不破光治。
 岐阜、立政寺へ。
 
  公方様(義昭)へ、御堅約の御迎へとして、
  不破河内、
  十四日に、濃州西庄、立正寺へさしつかはされ、
 

義昭は、立政寺を出発した。

 京への道を西へ(中山道)。
 この日、近江に入った。
 柏原成菩提院、泊。
 行程、凡そ30km。
 
  廿一日、既に御馬を進められ、柏原上菩提院御着座。
 
 翌日、桑実寺(くわのみでら)に到着。
 同寺は、観音寺山の中腹にある
 この日の移動距離、凡そ十里(40km)。
 
  廿二日、桑実寺へ御成り。

信長は、三井寺に入った。

 信長は、守山へ進出した。
 
  廿四(二十二の誤り)日、信長、守山まで御働き、
 
 翌日、さらに、南下。
 上洛するには、琵琶湖か瀬田川かどちらかを渡らなければならない。
 なにしろ、大軍勢である。
 数多くの船が必要だった。
 信長は、その手配・準備等に手間取った。
 そのため、この日は彼の地に留まらざるをえなかった。
 
  翌日、志那・瀬田の船、さし相ひ(=かち合い)、御逗留。
 
 信長は、琵琶湖を渡った。
 三井寺極楽院に本陣を置く。
 
  廿六(二十四の誤り)日、
  御渡海なされ、三井寺極楽院に御陣を懸けられ、
  諸勢、大津の馬場・松本に陣取る。
 

信長は、ここで義昭と合流した。

 義昭は、一日遅れて、三井寺に到着した。
 
  廿七(二十五の誤り)日、
  公方様御渡海にて、三井寺光浄院に御陣宿。

                          (『信長公記』)

          ⇒ 次回へつづく 

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