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本能寺の変1582 第197話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第197話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 

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秀吉は、越前府中にいた。

 同十五日。
 吉田兼見(勅使一行)は、夜明け前に高島を出発した。
 夕方、敦賀に到着。
 行程、凡そ十二里48km。
 
  十五日、辛巳(かのとみ)、
  未明、新城を発足、敦賀に至り下着、申の刻(16時頃)、
  一宿しおわんぬ、

 同十六日。
 吉田兼見は、府中に着いた(福井県越前市府中)。
 行程、凡そ十一里44km。

 兼見は、ここで、秀吉に会った。
 秀吉は、加賀での役目を終えたようである。
 南下していた。
 
  十六日、壬(みずのえ)午(うま)、
  敦賀を発足し、越州府中に至る、
  此のところに羽柴藤吉郎在陣の間、罷り向かい礼を申す、
  手縄・腹帯相遣わしおわんぬ、
  面会、

                          (「兼見卿記」)

勅使一行が北ノ庄に到着した。

 同十七日。
 吉田兼見は、府中を朝早く出発して昼すぎ頃北ノ庄に到着した。
 行程、凡そ五里(22km)半。
 
  十七日、癸未(みずのとひつじ)、
  早天、府中を発足、北ノ庄に至る、午刻、
  本陣なり、

 
 取次は、村井専次。
 
  村井専次陣所を相尋ね、使者を以って案内申し遣わすのところ、
  後、陣所へ罷り向かうべきの由返事の間、
  勧弁 (勧修寺晴豊)を同道せしめ罷り向かう、
  村専に面会、
 
  信長の気色を伺ふに、村専、本陣へ罷り出で、其の間、相待つなり、

信長は、勅使を歓待した。

 その時、信長は北ノ庄城の普請場にいた。
 帰途を待ち、面会。
 
  信長、普請場に出でらるゝなり、
  御皈(かえ)りの砌(みぎり)、路次に於いて御礼を申す、然るべしの由、
  村専、諷諫(ふうかん=忠告)、

 
  後刻、本陣に罷り出で、門外で相待つ、
  勧弁同前、
  信長、普請場より皈(帰)城なり、
  其の時、対面、

 
 取次が武井夕庵に変わった。
 
  夕庵を以って、弓五張りこれを進らせ、勧弁、勅使の旨申さるゝ、
  私、五明二本持参なり、
  夕庵を以って、勧弁・予、相待つべきの旨、信長より御使ひの間、
  広間座敷に入り暫し相待つ、

 
 信長は、機嫌がいい。
 二人を歓待した。
 偶然、細川信良(昭元)もその場に居合わせた。
 
  後刻、奥の間に於いて対面、
  先ず、勧弁、
  次ぎ、細川右京兆、
  次ぎ、予、礼を申しおわんぬ、

 そして、酒食が用意された。
 三人、同席。
 暫し、歓談。
 後、宿所に帰る。

  即ち、其の座敷に於いての次に、夕飡(さん)の儀在り、
  丁寧なり、
  信長対座、夕飡は、勧弁・細川右京兆・予、三人なり、
  此の後、礼を申し各(おのおの)、退出、
  仕合せなり、
 
  村専の陣所に皈(かえ)る、
  夕庵を以って、勧弁へ、小袖一重・鮭二、持ち給ふなり、
  今夜、町屋を借り一宿しおわんぬ、

 
 その後、兼見は、信長の家臣たちを見舞った。
 その数、九人。
 特に懇意にしている者たちであろう。
 細川藤孝にも会った。
 
  腹田備中守(原田直政)に手縄・腹帯、佐久間甚九郎(信栄)同前、
  柴田修理進(勝家)・猪子兵介(高就)・村井作左(右)衛門(貞成)、
  各(おのおの)に持参同前なり、
  村専ユカケ一具、九藤新左衛門果子、芥川へ果子、
  長兵(長岡兵部大輔=細川藤孝)へ各持ち遣わし、面会なり、
                          (「兼見卿記」)

 
 村井専次は、村井貞勝の子と思われる。
 清次と同一の人物だろう。
 信長に、近侍していた。
 生年不詳。
 本能寺の変時、父とともに二条御所で討死した。
 
 村井貞成も、同じく貞勝の子。
 どちらが、兄か弟かはわからない。
 京都所司代の父を助けた。
 生年不詳。
 本能寺の変時、同前。
 
 佐久間信栄は、佐久間信盛の嫡男。
 弘治二年1556の生れ、この年二十歳。
 忙しい父を補佐する立場にあった。
 だが、やがて茶湯にのめり込む。
 津田宗及の「天王寺屋会記」に頻繁に登場。
 このことが一因となり、信長の怒りをかう。




 ⇒ 次へつづく 第198話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 





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