本能寺の変1582 第85話 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第85話 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代
織田信秀が古渡城を築いた。
同、天文十五年。
この頃だろう。
信秀は、新たに古渡城を築いた。
那古野城から、新城に移る。
信長、元服。
信長は、古渡城で元服した。
吉法師改め、織田三郎信長を名乗る。
十三歳の時。
吉法師殿、十三の御歳、
林佐渡守(秀貞)・平手中務(政秀)・青山与三右衛門・内藤勝介、
御伴申し、
古渡の御城にて、御元服。
織田三郎信長と進め(=名乗)られ、御酒宴御祝儀斜めならず。
信秀は、信長に那古野城を与えた。
信秀は、元服を機に、信長に那古野城を譲った。
両城は、ほぼ南北に位置し、その距離は一里に満たない。
すなわち、指呼の間。
当時は、視認できた。
また、この時、若年の信長のために、四人の家老をつけている。
或る時、備後守、国中、那古野へこさせられ、
丈夫に御要害仰せ付けられ、
嫡男、織田吉法師殿に、
一おとな 林新五郎(秀貞)、
二長(おとな)、平手中務丞(政秀)、
三長、青山与三右衛門、
四長、内藤勝介、
是れらを相添へ、
御台所賄(経理など)の事、平手中務。
(信秀は)御不弁限りなく(熱田から遠くて不都合だから)、
天王坊と申す寺(亀尾天王社=現那古野神社)ヘ
御登山なされ(築城地選定のため)、
那古野の城を吉法師殿へ御譲り侯て、
熱田の並び古渡と云ふ所に新城を拵へ、備後守御居城なり。
御台所賄、山田弥右衛門なり。
(『信長公記』)
武田勝頼、生まれる。
同、天文十五年。
信玄の四男。
母は、側室、諏訪頼重の娘。
信長の元服の年に生まれた。
信長は、
信玄より十三歳年下、
勝頼より十一歳年上、
ということになる。
信長、初陣。
天文十六年1547。
信長は、三河の吉良大浜に出陣した(愛知県碧南市音羽町)。
初陣である。
平手政秀が後見役をつとめた。
信長、十四歳の時。
翌年(天文十六年)、織田三郎信長、御武者始め(=初陣)として、
平手中務丞、その時の仕立(準備して調えた)、
くれなゐ筋のづきん、はをり、馬よろひ(鎧)の出立(いでたち)にて、
駿河より人数入れ置き侯三州の内吉良大浜(=今川の属城)へ御手遣ひ。
所々、放火侯て、其の日は、野陣を懸げさせられ、
次の日、那古野に至つて御帰陣。
道三が、頼純を殺害した。
同、天文十六年。
美濃。
ついに、その時が来た。
道三は、手段を選ばない。
頼純のみならず。
その弟までも。
「次々に」
これが、戦国時代なのだろう。
其の後、土岐殿(頼武)御子息次郎(頼純)殿・八郎(頼香)殿とて、
御兄弟これあり。
忝くも、次郎殿を聟(むこ)に取り、
宥(なだ)め申し、毒飼を仕り、殺し奉り、
其の娘を又、御席(むしろ)直し(=後妻)にをかせられ侯へと、
無理に進上申し侯。
主(ぬし)は稲葉山に居(す)ゑ申し、
土岐次郎(八郎頼香の間違いか?)殿をば山下に置き申し、
五三日に一度づゝ参り、御縁に畏まり、
御鷹野へ出御も無用、
御馬などめし侯事、是れ又、勿体なく侯と申しつめ、
籠(かご)の如くに仕り侯間、
雨夜の紛れに忍び出で、御馬にて、尾州を心がけ御出で侯ところ、
追い懸け、御腹めさせ侯。
(『信長公記』)
太田牛一は、頼武と頼芸を混同しているようである。
前の守護土岐頼武は、大永五年1525に死去したものと思われる。
文中の「土岐殿」とは、その頼武のこと、
「子息次郎殿」は嫡男頼純、「八郎殿」はその弟頼香のことだろう。
この時、頼純は、まだ二十四歳という若さだった。
「国盗り」をめざす道三にとって、邪魔者だった。
これと同様の記述が、「春日文書」にもある。
【参照】9光秀という男 7美濃の争乱 63 64
【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 79
⇒ 次へつづく 第86話 12光秀と斎藤道三 4大うつけ
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