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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 45 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 2 上洛不発 

誰もが、上洛間近と思った。 

 大覚寺義俊は、大和の十市氏へそれを伝えようとした。
 
  一、今度、将軍御入洛あるべきの由につき、
    高田為成より、遮りて(=わざわざ)、
    十兵(十市兵部少輔)の儀、大覚寺殿をして申し入られ、
    (和睦が)相調ひ、

義昭の御内書である。

 義昭の気持ちは、高揚していた、

    則ち、御内書成せらるゝの通り、

信長は、確かに、約束した。

 しかし、「一寸先は闇」。
 何が起きても、おかしくない時代だった。
 信長は、用心深いのである。

    状に、曰く、
 
      御出張の儀に就きて、御内書成され候、
      来月二十二日、織田尾張守参陣致し、
      御動座、御供申すべき由に候、

これには、家康も参陣する。

 「三州(三河)」、とある。

      其れにつき、三州・濃州・勢州四ヶ国出勢必定に候、

      此の砌(みぎり)、忠節抽んでらるべくば、神妙たるべき由
      申し入るべき旨に候、

      猶、(高田)為成演説あるべく候間、再筆能わず候なり、
      穴賢(かしこ)々々、
 
        七月十七日    御判在之
       十市兵部少輔殿

多聞院英俊がこれを書き写した。

 多方面に、情報網を張り巡らしていた。
 
        以上、大覚寺殿小文にこれあり、
        写すなり、
        別帋(かみ=紙)にも日の下にも御判ばかりこれあり、
        名はこれなし、

しかし、糠喜びに過ぎなかった。

 そして、次の一文がつづく。

       有る如しと雖(いえど)も、此の御内書は、到来せず、
       大覚寺殿、一圓(円)、虚説なり、
              (「多聞院日記」永禄九年八月二十四日条)
 
 

          ⇒ 次回へつづく 


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